夢に胡蝶となる・荘子

「荘子」は、その文章の巧みさ、その発想の奔放自由さにおいて、すぐれた文学作品です。後世の文学者にも大きな影響を及ぼしました。陶淵明、李白、蘇軾など中国を代表する文人達の作品の中に「荘子」の影響が強く滲み出たものが多いことはよく知られています。近代では魯迅が「荘子の毒にあてられた」と、喜びとも嘆きともつかぬ言葉でその影響の大きさを表現しています。日本文学への影響も多大で、「荘子」を愛読しその世界に共鳴した人たちとして、西行法師、鴨長明、吉田兼行、松尾芭蕉、良寛が知られています。明治に入っても森鴎外、夏目漱石、そして日本人初のノーベル賞受賞者である物理学者の湯川秀樹博士が「荘子」を愛読していたことは有名です。

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<語句解説>

荘子と「荘子」

荘子(荘周)は、中国戦国時代の思想家です。荘子の「子」は「先生」といった意味の敬称で、孔子、孟子、孫子なども同じです。「荘周、夢に胡蝶となる」とあるように、名は周です。思想家の著作に子という敬称をつけて名前で呼ぶのは「孟子」「孫子」なども同じです。ここでは人物を荘子、「荘子」は著作名として表記します。

荘子は、中国の戦国時代中期(BC300年頃 孔子の時代から約200年後)の思想家で、老子とともに儒家と対立する道家の始祖とされています。同時代に活躍した思想家に儒家の孟子(孟軻)がいます。出身は宋の国、蒙(現在の河南省商邱県付近)とされ、史記には、魏の恵王(在位 BC370年〜BC319年)、斉の宣王(在位BC319年〜BC301年)と同時代の人と記録されています。荘子が生きたのは、だいたいBC4世紀後半とされています。多数の国が乱立して争った春秋時代が終わり、七つの強国が天下を分けて争った戦国時代の中期です。宋は、東夷族とされた殷の遺民を集めて作った国です。また、そこは「四戦の地」と呼ばれるほど戦禍の集中しやすい土地でもありました。BC286年、宋は、斉、楚、魏の連合軍によって滅ぼされ領土を分割され滅亡しました。荘子は宋の滅亡をその目でみたものと思われます。史記には、荘子は蒙の漆園の役人をしていたとありますが、詳しい伝記はありません。

「荘子」は、議論文と寓話の組み合わせによって構成されています。しかし、その成立年代については、よくわかっていません。荘子が著した原著に後人(弟子たち)が書き加え、いくつかの部分が散逸し、そしてそれが再構成されながら伝わってきたのです。今読まれている「荘子」は、四世紀、晋の郭象が編集したもので、内篇、外篇、雑篇の三つの篇で構成されています。その中で内篇(特に逍遥遊、斉物論)は、荘子によって書かれたことが確実とされますが、外篇と雑篇は、後人(弟子たち)によって書き加えられたものであろうと推測されています。

荘子と夢

今回取り上げる「夢に胡蝶になる」は、内篇・斉物論にある有名な文章です。同じ斉物論の中で荘子は、夢について次のようにも語っています。「夢の中で歓楽を尽くした者が、一夜明けると、辛い現実に声を上げて泣き、夢の中で悲しんだ者が、一夜明けると、けろりとして猟を楽しむ。夢を見ているときは、それが夢だとは気づかない。夢の中で夢占いをすることさえあるが、目覚めてはじめて夢だったと気づくのだ。人生にしても長い夢のようなもの、真の悟りに到達した者だけが、それが夢であることに気づくのだ。だが、愚かにも人々は、目覚めた人間を以て自任し、小知をこれみよがしにふりかざし、何が貴いの何が賤しいのと論じたてる。まったく救いようのない連中だ。孔丘(孔子)にせよ、お前にせよ、みな夢をみているんだ。いや夢だといってる私も例外なしに夢をみているのだ。こういえば、さぞかし奇怪千万な意見と取られるだろう。わからないのが当たり前、この説を受け入れられる大聖人は、数十万年に一人出るか出ないかというところだからな」岸陽子訳「中国の思想・荘子」徳間文庫より抜粋

儒教と道教

文中に孔丘(孔子)が登場します。つまり、「目覚めた人間を以て自任し、小知をこれみよがしにふりかざし、何が貴いの何が賤しいのと論じたてるまったく救いようのない愚かな連中」とは、孔子を始祖とする儒家のことを皮肉ってそういっています。孔孟の思想を掲げる儒家は、政治や道徳といった公的な面で長い間大きな勢力を維持してきました。一方、老荘の思想を掲げる道家は、その裏側をささえるものとして生き続けてきました。儒教の政治や道徳に反対し、それと鋭く対立したのが道家の人々です。

儒教は現実の人間に対する関心が強く、現実の社会の中で生活する人間のあり方、あるべき姿、それがいろいろな角度から繰り返し説かれます。人生を第一とし、生きることの重みを伝えるのが儒教です。しかし、その分、神も出てこなければ、自然も出てきません。人間がどうして生まれてきたか、死んだらどうなるか、人間を取り巻く世界はどうかといった問題は、儒教では意識されません。現実的な人間の生き方のみを追求していくのが儒教の態度です。

一方、道家では「大道廃れて仁義あり(老子十八章)」儒教の唱える仁義の徳は、本当の優れた道が衰えたため生まれたものだとされます。また「我れ無為にして民自ずから化す(老子五十七章)」いわゆる無為自然のあり方が貴ばれ、ことさらな政治は否定されます。さらに「無知」「無欲」が強調され、人間的なさかしらの知恵や、あくことのない欲望も否定されます。現象を超えた世界の始源あるいは根源者を「道」と呼んで尊重し、人間社会の外界にもその思索が及びます。荘子は特に自然に関しての著述がとても豊かです。

荘子は、世俗の認識と価値観を否定してあらゆる判断を相対化します。人間が絶対に正しいと考えるものも、世界の真実に照らせば、決して正しくはないのです。斉物論の論理によれば、「是」と「非」とは斉しく、「生」と「死」も斉しく、さらに「夢」と「覚」も斉しくなります。人は、目覚めている時の認識が正しく、夢の中の出来事は偽りだと考えます。しかし、すべてを相対化した荘子は、その果てに、自己の存在についても、確固たる判断をさけます。「自分は本当に荘周なのか、本当は胡蝶ではないのか。この世のすべては夢ではないだろうか」人は一生あくせく働きます。自分の価値観を頼りに人生を生きています。そして、自分は今、間違いなく目覚めていると信じています。しかし、「すべては夢の中の出来事ではないのか。この世界の真実を正しく知るためには、夢と覚醒を超越した大いなる目覚めの境地に達する必要があるのではないか」荘子はそう主張するのです。

「荘子」は、その文章の巧みさ、その発想の奔放自由さにおいて、すぐれた文学作品です。後世の文学者にも大きな影響を及ぼしました。陶淵明、李白、蘇軾など中国を代表する文人達の作品の中に「荘子」の影響が強く滲み出たものが多いことはよく知られています。近代では魯迅が「荘子の毒にあてられた」と、喜びとも嘆きともつかぬ言葉でその影響の大きさを表現しています。日本文学への影響も多大で、「荘子」を愛読しその世界に共鳴した人たちとして、西行法師、鴨長明、吉田兼行、松尾芭蕉、良寛が知られています。明治に入っても森鴎外、夏目漱石、そして日本人初のノーベル賞受賞者である物理学者の湯川秀樹博士が「荘子」を愛読していたことは有名です。

物理学者湯川秀樹の荘子

岩波新書に「本の中の世界」と題する湯川秀樹博士の著作があります。その中に「荘子」と題するエッセーがあり、その一部を要約してご紹介します。

自分は幼い頃、祖父より漢学(中国の古典)の素読を指導された。はじめは意味は全然わからなかったが、しかし不思議なもので、教えてもらわないのに何となくわかるようになっていった。習ったのは、「論語」「大学」「孟子」など儒教関係の本が多かった。儒教の古典は私にはあまり面白くなかった。道徳に関することばかりで、何となく押しつけがましい感じがしたのだ。中学に入って、中国の古典でももっと面白いもの、もっと違った考え方のものがないだろうかと父の書斎をあさった。「老子」「荘子」を見つけ、引っ張り出して読んでいるうちに、「荘子」を特に面白いと思うようになり、何度も読み返した。中学生ということもあり、どこまでわかったか、どこが面白かったか、後になってから、かえって不思議に思うこともあった。中国の古代思想家の中で私が好きなのは、老子と荘子であることは今も変わらない。「老子」の思想は、ある意味、「荘子」より深いのであろうが、その文章の正確な内容がなかなかつかめない。言葉も言い回しも難しく、結局その思想の骨組がわかるだけである。ところが「荘子」の方は、いろいろ面白い寓話があり、一方で痛烈な皮肉をいいながら、他方で雄大な空想を際限なく広げていく。しかも、その根底には一貫して深い思想がある。比類のない名文でもある。読む方の頭の働きを刺激し、活発にしてくれるものが非常に多い。本の面白さにはいろいろあるが、一つの書物がそれ自身の世界を作り出していて、読者がその世界に、しばらくの間でも没入してしまえるというような本を私は特に愛好する。その一つの例として、先ず、「荘子」を取り上げてみたのである。

上記の湯川博士の文章を読んで面白く感じたのは、「祖父より漢学の素読を指導され、はじめは意味は全然わからなかったが、不思議なもので教えてもらわないのに何となくわかるようになった」と述べられていることです。素読は、漢文の文章を声に出してひたすら訓読する読み方です。「しのたまわく、まなんでときにこれをならう」という感じです。意味は教えられません。これを繰り返していると、教えられずとも、何となく意味がわかるようになるというのです。本当かなと思いますが、漢文学の大家、吉川幸次郎博士が著した「漢文の話」ちくま文庫でも、「何ゆえにそうであるかを分析できていないが、『読書百遍、意自ずから通ず』というのは、漢文においては、真理である面を確かに持っている」と述べられています。名文を声に出して繰り返し読むことの大切さ、名文を暗記することの大切さもそこにあるように思います。また、最初に指導されたのが儒教関係の古典であったことも、注意すべきことだと思います。道家の思想(老荘の思想)は、儒家の思想(孔孟の思想)を批判するものとして出て来たわけですが、儒家の思想をまず理解した上でなければ、道家の思想は正しく理解できません。「荘子」を読む前に「論語」をしっかり読んでおく、「論語」を読まずして「荘子」を正しく理解することはできないのです。ですから先人達の読書もそのようなものでした。湯川博士も「論語」を読むことなく、いきなり「荘子」読んでいたなら、ここまで「荘子」の面白さに惹かれることはなかっただろうと思います。そして、最後の文章にある「一つの書物がそれ自身の世界を作り出していて、読者がその世界に、しばらくの間でも没入してしまえるというような本」なるほど、これが名著の条件かと、唸ってしまう名言です。

中国の古典と日本文学

ここまで、松尾芭蕉の「おくの細道」から始まって後、李白、韓愈、柳宗元、蘇軾、荘子と中国の古典(漢文)から名文(名詩)を取り上げてきました。李白の「春夜桃李の園に宴するの序」は、松尾芭蕉が「おくの細道」の書き出しに引用した名文です。李白の時代に続く韓愈と柳宗元は、古文復古の文体改革の先頭にたった二人です。それぞれの代表的な漢詩をとりあげましたが、そこには二人の人物と人生がギュッと凝縮されています。蘇軾は、韓愈と柳宗元が確立した文体を定着させた六人の宋の文人官僚の一人です。蘇軾の赤壁の賦は名文として長く読み継がれてきました。それは蘇軾が生きた時代と蘇軾の生き方から離れて存在するものではありません。そして今回取り上げた「荘子」は、後世の文学者に計り知れない大きな影響を与えた名著です。松尾芭蕉もその一人です。芭蕉は荘子への思いを句にしています。それが「君や蝶 我や荘子が夢心(荘子さん、あなたが夢で蝶になったように、今、私は夢であなたになっているのですよ)」という句です。しかも芭蕉は「栩々斎」という俳号ももっていました。これは「栩々然として胡蝶為り」から取ったものです。芭蕉にとって「夢に胡蝶となる」は、「荘子」の中でも特別の文章だったようです。

先人達、特に江戸時代の文人達がいかに中国の古典を愛し、それを自らの文学の礎としていたかがわかります。漢文訓読のあの引き締まった格調高い文章が、私たち日本人の読書の原点なのです。もうかなり以前ですが、評論家の加藤周一(1919年〜2008年)さんが、生前、雑誌の対談で「私は杜甫を毎日音読している。それは日本語力を落とさないためだ」と語っておられたのを読んだ記憶があります。それを読んだときは「日本語力を落とさないために漢詩を読むのか?」と違和感を覚えたのですが、今は言い得て妙です。他にも、司馬遼太郎(1923年〜1996年)さんが『学生時代の私の読書』と題するエッセイの中で「日本の古典や中国の古典は、黙読はいけません。音読すると、行間のひびきが伝わってきます。それに、自分の日本語の文章力を鍛える上でも、じつによい方法です」と述べられています。日本の文学界を代表する評論家と小説家がともに同じことを言っておられるわけですから、疑う余地のない真実なのだと思います。

もちろん芭蕉にしても、西鶴にしても、中国の古典ばかりを読み耽っていたのではなく、和歌や和文も読み込んでいました。しかし、和文を読む力も漢文訓読の力があってこそだと思います。そのくらい「漢文訓読力」、つまり中国の古典を訓読する力が日本語力を鍛える基礎になっているのです

参考文献
興膳宏著「中国名文選」岩波新書
浅野裕一著「古代中国の文明観」岩波新書
湯川秀樹著「本の中の世界」岩波新書
岸陽子訳「荘子」徳間文庫
金谷治著「中国思想を考える」中公新書
湯浅邦弘著「諸子百家」中公新書
玄侑宗久著「荘子」100分de名著 NHKテレビテキスト

上記の参考文献の中でも、興膳宏著「中国名文選」岩波新書は、個人的には、岩波新書の中で最高の名著と思っています。名文電子読本に取り上げた中国の古典は、この本を参考にしました。唐宋八大家では、韓愈、柳宗元、欧陽脩、蘇軾の文章が取り上げられ、その文章の魅力が余すところなく解説されています。繰り返し、繰り返し読むべき岩波新書の名著です。