論語と算盤・渋沢栄一

1916年(大正五年)に初版が出版された「論語と算盤」は、渋沢栄一の「経済道徳合一説」を伝える書として有名です。しかしこの書は、その書名の通りに論語の思想と経済の関係だけを説いた本ではありません。経済や経営といった分野に限定せず、もっと広い意味で人としてどう生きるかについて多くのことが書かれています。

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<語句解説>

渋沢栄一

「論語と算盤」の著者渋沢栄一(1840年〜1931年)は、「日本資本主義の父」と呼ばれるほど日本の近代化に大きな貢献をした人物です。その貢献が具体的にどのようなものだったかは、ここで改めて語る必要はないかと思います。

渋沢の実家は、今の埼玉県深谷市で藍玉の製造販売を主な家業とする豪農(名主)でした。渋沢の家が米と野菜だけを作る普通の農家と違うところは、藍葉を仕入れ、それを原料として藍玉を作り、それを各地で売りさばくという商工業者的な側面を持っていたことです。藍葉の仕入と藍玉の販売、その価格交渉には算盤が必須でした。しかも父が「今日の世に立つには、百姓といえども相当の学問がなければならない」という先進的な考えを持っていたため、渋沢は六歳の頃から学問(大学、中庸、論語など)の手ほどきを受け、八歳からは縁戚の尾高惇忠について本格的に修学しました。子供の頃の渋沢はかなりの読書好きだったようで、正月年始の挨拶回りに本を読みながら歩き溝に落ちて春着の衣装を汚して母にひどく叱られたというエピソードを語っています。こうした環境で育ったことが、渋沢が後年実業界で大きな成功を収めたことの下地になっています。

渋沢が十七歳の時、父の名代として代官所に行き、代官から五百両の御用金を出すように命じられます。即答せず、自分は代理であるので父に伝えると答えたところ、代官からひどい蔑みを受けます。その体験が官尊民卑を打破しなければならないという強い信念に結びついたと後年になって語っています。

後に一橋慶喜に仕え、慶喜が十五代将軍に就任したことで渋沢も幕臣となります。幕臣となってすぐパリ万博に派遣される使節の随行員としてフランスに赴きました。徳川幕府の瓦解により帰国して後は明治新政府に財務官僚として仕えます。官を辞して民間に移って後の財界での活躍が「日本資本主義の父」と呼ばれる所以ですが、岩崎弥太郎など他の財閥系の財界人との違いは、論語の教えを経済活動の支えとし、道義にかなった経営を行ったことです。フランスに派遣された時、ヨーロッパでは合本主義(株式会社制度)によって資本と事業を結びつけ産業を振興させていることを学んだ渋沢は、日本にもそれを導入して多くの会社を設立します。そして社会における民間企業の地位を向上させることで官尊民卑の打破を目指しました。

渋沢栄一

修養の書「論語と算盤」

1916年(大正五年)に初版が出版された「論語と算盤」は、渋沢栄一の「経済道徳合一説」を伝える書として有名です。しかしこの書は、その書名の通りに論語の思想と経済の関係だけを説いた本ではありません。経済や経営といった分野に限定せず、もっと広い意味で人としてどう生きるかについて多くのことが書かれています。

「得意時代と失意時代」と題する章に書かれた次の文章を読んでみましょう。

「およそ人の禍は多くは得意時代に萌すもので、得意の時は誰しも調子に乗るという傾向があるから、禍害はこの欠陥に喰い入るのである。されば人の世に処するにはこの点に注意し、得意時代だからとて気をゆるさず、失意の時だからとて落胆せず、情操をもって道理を踏み通すように、心掛けて出ることが肝要である。それとともに考えねばならないのは、大事と小事についてである。失意時代には小事もなお、こころするものであるが、多くの人の得意時代の思慮は全くこれに反し、『なにこれしきのこと』といったように、小事に対してことに軽蔑的の態度を取りがちである。しかしながら、得意時代と失意時代とにかかわらず、常に大事と小事についての心がけを緻密にせぬと、思わざる過失に陥りやすいことを忘れてはならぬ。・・・・・・大事に処するには如何にすればよいかというに、まず事に当たって、よくこれを処理することができようかということを考えてみなければならぬ。けれどもそれとて人々の思慮によるので、ある人は自己の損得は第二に置き、専らその事について最善の方法を考える。またある人は自己の得失を先にして考える。あるいは何物をも犠牲として、その事の成就を一念に思うものもあれば、これと反対に自家を主とし、社会の如きはむしろ眼中におかぬ打算もあろう。蓋し人は銘々その面貌の変わっておるごとく、心も異なっているものであるから、一様に言う訳にはいかぬが、もし余にどう考えるかと問われるならば、次の如く答える。すなわち、事柄に対して如何にせば道理にかなうかをまず考え、しかしてその道理にかなったやり方をすれば国家社会の利益になるかを考え、さらにかくすれば自己のためにもなるかと考える。そう考えてみた時、もしそれが自己のためにはならぬが、道理にもかない、国家社会をも利益するということなら、余は断然自己を捨てて、道理のあるところに従うつもりである」

人生における不幸や失敗の多くは、人生が好調である時に自らその原因を作ります。逆境の原因は順境の中にあります。特に順境の時には小事をバカにして、なにこれしきのことという態度で小事に臨み、結果、禍を招き寄せます。これは人生経験の浅い若い人には「ふーん、そんなもんか」くらいにしか思えないかもしれません。しかし人生経験を積むほどに、この渋沢栄一の言葉の意味が身に染みてくるのです。

大事をなそうとするなら、まず、いかにすれば道理にかなうかを第一に考える。道理とは「人として正しい道」「物事の正しい筋道」つまり「正道を歩むこと」です。たとえ自分の利益にならぬことであっても、国家社会の利益になるのであれば、自分の利益は捨て道理に従う。これが渋沢栄一の道理の哲学です。これは事業経営だけでなく、人として生きていく限りのすべてのことに言えます。何事かをなさんとするに、たとえ自分の利益を捨ててでもそれが国家社会全体の利益となるのであれば、捨てた自分の利益は将来必ず利子がついて帰って来る。これも道理というものです。

「論語と算盤」には、こうした修養的な内容が多く含まれています。これは渋沢が人としてどう生きるかが、経済活動の基礎となっているととらえていたことをうかがわせます。「論語と算盤」は、渋沢栄一の思想と人物を知る上で格好の書です。

「常識とは如何なるものか」

名文電子読本でとりあげたのは、「常識とは如何なるものか」という章から抜粋した文章です。取り上げた文章の前に次の一文があります。「およそ人として世に処するに際し、常識はいずれの地位にも必要で、また、いずれの場合にも欠けてはならぬことである」渋沢栄一は、自分自身が人に抜きんでた能力や強い個性をもった天才・奇才ではなく、彼自身が「偉大なる常識人」でした。そして、渋沢の父である渋沢市郎右衛門元助(1810年~1871年)も「偉大なる常識人」でした。渋沢は父から大きな影響を受けています。渋沢栄一の言葉によれば、「父は四書や五経は充分に読める教養を備え、方正厳直でありながらも人に対しては慈善の徳に富んでよく世話をし、またいたって質素倹約でただ一意家業に勉励する堅固な人でした」と述べています。父は「智・情・意」の三者が各々権衡を保ち、平等に発達した人でした。渋沢栄一は、若い時代に尊王攘夷思想と討幕運動に共感し、家業を疎かにするだけでなく、過激な行動を起こそうと計画したことがあります。そのことに対して、父は息子を厳しく諫めます。しかし、どうにも栄一の意志が固いことを知ると、形だけ息子を勘当して行動の自由を与えました。そして、その後も経済的に援助することで息子を支え続けました。それは息子栄一を信じていればこそできた行為です。父の情愛が渋沢栄一を偉大な常識人へと変えていきました。

渋沢は、その著「論語講義」の論語総説の中で、孔子について次のように述べています。
「さて、孔夫子(孔子)の人となりは、一言にして言えば常識の非常に発達したる円満の人というが適評ならん。古来世の所謂英雄や豪傑は常人に卓越したる特色や長所があると同時に、非常なる欠点や短所もあるものである。しかるに孔夫子(孔子)に至っては特別なる長所というべき所なき代わりに、これぞという短所もないのである。ゆえにこれを称して偉大なる平凡人というても適当であろう」「すなわち人は釈迦や耶蘇(キリスト)たるは難しとするも、孔子たることは、はなはだ難きことにはあらざるべし。何となれば吾人は非凡の釈迦や耶蘇たること能わざるまでも、平凡の発達したる孔子たり得べからざる理なければなり。ただ勉めて倦まざるに在るのみ。要するに孔子は万事に精通して円満無碍の人である。すなわち常識の非常に暢達した方である。」渋沢は、常識人のモデルを論語の中の孔子から得ていたのです。

伊藤博文と渋沢栄

明治日本の東の偉大な常識人が渋沢栄一なら、西の偉大な常識人は伊藤博文です。伊藤博文も農民の出身(渋沢のような豪農ではなく貧農)でしたが、吉田松陰の松下村塾で学び、高杉晋作に可愛がられます。博文という名前は高杉晋作が伊藤に贈った名で論語に由来します。若い頃の伊藤は渋沢と同じく尊王攘夷思想に走り、英国公使館の焼き討ちに参加するなど急進的な行動で頭角を現します。同じ頃、渋沢も外国人居留地である横浜の焼き討ちを計画していました。元々二人ともテロリストを目指していたのです。伊藤は長州藩からイギリスに留学し、イギリスの国力の大きさに圧倒され、西洋の進んだ技術を学ぶことの必要性を痛感して攘夷から開国に考えを転じます。その後の明治に入ってからの伊藤の活躍は誰もが知る通りです。渋沢と伊藤は、短い間ですが、できたばかりの大蔵省でともに仕事をしています。一つ年下の伊藤が大蔵少輔として渋沢の上司でした。しかし、渋沢は自伝の中では伊藤のことを多く語っていません。渋沢の大蔵省時代は、初代大蔵大輔(次官)であった大隈重信と、次に大蔵大輔となった井上馨との関係が親密でした。しかし、渋沢と伊藤の二人はお互いを強く意識していたと思います。渋沢は幕臣、伊藤は長州藩の出身、つい数年前までは敵同士でした。そして、渋沢がフランスなら、伊藤はイギリスへの留学経験があります。過激な尊王攘夷思想と討幕運動も共通します。性格もよく似ていました。二人がライバル意識を持って当然です。伊藤は四度総理大臣を務めましたが、権力を誇示することなく非常に親しみやすい性格でした。「お世辞を言わないお金にきれいな人物」これが明治天皇が伊藤を信頼した理由です。

明治以後、官界から実業界へ転じた渋沢、官界から政治家として初代総理大臣に就任した伊藤、二人の活躍の場は違いましたが、よく似た人生を歩んでいます。この二人の偉大な常識人が日本の近代化に尽くした功績は計り知れません。

「智・情・意」の権衡

「智・情・意」で思い出す文章がないでしょうか。「山路を登りながら、こう考えた。智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。」夏目漱石の草枕の冒頭の有名な文章です。夏目漱石のこの文章も、真実をついたまことにうまい名文です。「世間の人とつきあうとき、頭のよさを見せると嫌われる。情を重んじるとどこまでも感情に引きずられてしまう。また自分の意見を強く主張すると人と衝突することが多く世間を狭くする」「智・情・意」の三つは、その一つだけに強くとらわれると、それは人間にとって決してプラスに作用しません。学歴の高いだけの人間が智を誇れば必ず人に嫌われます。情愛の深いだけの人間が友人に保証人を頼まれると、嫌といえず引き受け、結局債務をかぶってしまいます。自己主張が強いだけの人は周りとトラブルを抱えて孤立します。渋沢は、たからこそ「智・情・意」の三者が各々権衡を保ち、平等に発達せしむることが大切であると説いたのです。これは中庸(一方に偏り過ぎないこと)と調和を大切にする孔子の考え方です。

渋沢栄一はその著「論語講義」の中で、西郷隆盛を回想して次のように述べています。「維新の三傑の中でも随一と言われた西郷隆盛公は、人に親切で同情心に富んだ実に仁愛の深い人であった。西郷公は剛毅なる大丈夫(立派な男子)で、平生いたって寡黙であり、実に君子の趣があった。薩南の健児三千人に擁せられて、明治十年に賊首となったのも、つまり同情心に富んだ仁愛に過ぎたためと見るべきである」と。渋沢栄一は西郷隆盛が能力と人格の面で他に秀でた人物であったことを認めながらも、西郷隆盛の悲劇的な最後は、情が傑出して高く「智・情・意」が均衡していなかったことによると分析しています。

また同じく「論語講義」の中で、坂本龍馬を回想しています。「慶応三年明治天皇即位の時、坂本龍馬と中岡慎太郎は土佐にて王政復古を唱え、その結果後藤・小松・福岡の三名が江戸へ下り、慶喜公へ大政奉還を勧め、天皇親政に復し、以て天下一致して外夷(外国の侵略)に当るべきであると建言した。・・・・当時坂本氏が後藤象二郎伯爵に送った手紙には「もし慶喜が大政奉還に応じなければ、土佐に帰り藩主が兵を率いて京に上り事を起こすよう進言するつもりである」とあった。これにて坂本氏に義を見てなすの勇のあることを知ることができる。同年十一月十五日夜、坂本氏が京都において暗殺されたのも、この意気の反応であろう」と。坂本龍馬の意気が盛んすぎたことが、龍馬が暗殺された原因だというのです。

日本の近代化を促進させた人間類型「常識人」

ドイツの社会学者マックス・ヴェーバー(1864年 ~1920年)は「プロテスタンティズムと資本主義の精神」という論文の中で、プロテスタントの世俗内禁欲が資本主義の「精神」に適合性を持っていたことを論じました。ヴェーバーの社会学を基礎に「近代」を担うべき人間について考察を深めた日本の歴史学者の大塚久雄は、イギリスを近代化のモデルとした時、その発展を支えたのは独立自営農民(ヨーマン)であると結論づけました。独立自営農民の持つ精神風土がイギリスにおいて近代化を促進させたというわけです。彼らは自らに与えられた職業を天職と捉える敬虔なプロテスタントで、勤勉に働き、合理的に効率性、生産性向上を追求する人々でした。

イギリスと同じように、もし日本にも近代化を促進させた人間類型があったとするなら、渋沢のいう「智・情・意」の三者が各々権衡を保ち、平等に発達した「常識人」ではないでしょうか。そうした「常識人」は、武士、農民、町人を問わず日本に多く存在し、彼らが日本の近代化の原動力となりました。

幕末の頃、日本人は武士だけに限らず、農民、町民までもが学問の大切さを理解していました。これは、世界的にも大変珍しいことだったはずです。もう一つ日本人が大切にしたもの、それは義理と人情です。「義理」は、社会で暮らす上で守らなければいけない正しい道理です。そして「人情」とは、他人への情けや思いやりの気持ちです。学ぶことの大切さを知り、義理と人情に厚い人々。「常識人」をそんな人々とイメージしてもよいかと思います。渋沢が父を語った言葉を思い出してください。「父は四書や五経は充分に読める教養を備え、方正厳直でありながらも人に対しては慈善の徳に富んでよく世話をし、またいたって質素倹約でただ一意家業に勉励する堅固な人でした」渋沢の父こそ、学ぶことの大切さを知り、義理と人情に厚い人の典型ではありませんか。

経世済民の論語学

渋沢が生き方の指針とした論語は、古来より儒学の基本テキストとして学ばれてきました。論語に大学、中庸、孟子を加えた四つの書物は、四書と総称され儒学を学ぶ上で特に重んぜられてきました。儒学には二つの根本思想があります。「修己治人」「経世済民」です。「修己治人」は「己を修め、人を治める」と訓読します。「人の上に立つ者は、まず自分自身の人格を磨け」という意味です。「経世済民」は「世を経め民を済う」と訓読します。「世のため人のために尽くす」という意味です。儒学といえば、封建思想の代名詞のように思われ、忠君愛国の学問をイメージする人も多いですが、修己治人と経世済民の二つが儒学の根本思想です。江戸時代、徳川幕府は政治に儒学を取り入れ、儒教倫理を規範に国が治められました。その結果、儒学は武士階級を中心に、主に修己治人の立場から民を治める政治哲学として学ばれました。明治に入り産業の近代化をはかる過程で、儒学を経世済民の立場から学び直そうとしたのが渋沢栄一です。「産業を興し発展させ、国を富まし国民の生活を豊かにする」これが渋沢にとっての「経世済民」でした。経済、経営を正しい方向へと向かわせるための根本理念として、儒学、特に論語の教えを利用したのです。渋沢は、これまで修己治人という官の立場から学ばれていた儒学を、経世済民という民の立場から学ぼうとしました。経済という言葉は経世済民を語源として、西周、福沢諭吉らによって幕末から使われ始めました。私たちは、経済という言葉に「世のため人のために尽くす」という意味が含まれていることを知っておかねばなりません。

参考文献
渋沢栄一著・加地伸行訳注「論語と算盤」角川ソフィア文庫
渋沢栄一著「雨夜譚/渋沢栄一自叙伝(抄) 」日本図書センター

「論語と算盤」は、現代語訳や関連本まで合わせると、「論語と算盤」と題するかなりの数の本が出版されています。その中でも、原文で読める「論語と算盤」角川ソフィア文庫を読まれる方が多いようです。原文もさほど難しい文章ではありませんが、現在ではあまり使われない古風な漢字熟語が多用されています。辞書を頼りにそれらの意味を調べながら読むことになりますので、それが大変です。電子版が出版されていますので、そちらで読めない漢字熟語をWeb検索しながら読むことをお勧めします。私は Apple Book の電子版で読みました。

「雨夜譚/渋沢栄一自叙伝(抄) 」は、渋沢栄一の自叙伝です。幕末から維新後に活躍した人物の自叙伝としては、福沢諭吉の福翁自伝と並ぶ名著です。雨夜譚は、幼い頃の読書の記憶から始まり、大蔵省を辞すところまでの人生の前半部分、渋沢栄一自叙伝(抄)は、明治新政府に出仕して以降の人生の後半部分が語られます。自叙伝で西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允、岩倉具視、勝海舟等、明治の元勲を印象を記した部分は読みものとして大変面白く、吸い寄せられるように読み進めることができます。全体としてはかなりの分量ですが、目次で興味のある部分を探し、拾い読みしてもよいかもしれません。

渋沢栄一の論語に関する考えを知るなら、渋沢栄一著「論語講義」を読まれることをぜひお勧めします。講談社学術文庫から文庫本が出ています。「論語講義」の現代語版として、守屋淳編訳の渋沢栄一の「論語講義」平凡社新書と竹内均編集・解説「論語の読み方」が三笠書房から出ています。