江雪・柳宗元
降りしきる雪の中、竿先から垂れるその糸の先には針も餌もついていません。それでもただじっと竿先を見つめ、糸を垂らし続けるのです。釣れないとわかっている魚を寒さに耐えながらただじっと待つその姿が、この五言絶句の二十字からしんしんと伝わってきます。
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エリート官僚柳宗元と政治改革の失敗
韓愈とともに文体改革の先頭に立った柳宗元は、韓愈と同様に下級官僚の家に生まれました。二十一歳で科挙に合格、韓愈が何度挑戦しても合格できなかった博学宏詞科(天子が直接に試験し任用する制度の科目の名)にも一発で合格します。将にエリート中のエリートとしてその官僚生活をスタートさせました。自信家で才気あふれた柳宗元は、既得権益を守ろうとする保守派と対立するグループに身を置き、政治改革を目指します。しかし後ろ楯であった皇太子が病に倒れたため政治改革は頓挫、改革を目指したグループは政権の中枢から一掃されます。この時、柳宗元も永州(湖南省永州市)に罪人として左遷されました。時に柳宗元三十三歳でした。柳宗元は、それから十年の月日を永州で過ごすことになります。湖南省の南端に位置する永州は、毒性の動物が至る所に生息する気候風土で、中央文化圏から隔絶された未開の僻地でした。都に生れ育った柳宗元は、はじめそんな気候風土の永州を嫌悪します。しかし、やがて次第にその土地の山水に美しさをみいだすようになり、その特色ある山水を描く文章の中に、罪人としての自分の屈折した思いを表現することで文学の才を開花させます。永洲の自然を描いた山水遊記の代表的な八篇「永洲八記」は、彼の代表作です。その中「始めて西山を得て宴遊するの記」は、冒頭「余は僇人(罪人)と為りてより、是の州に居し、恒に惴慄(恐れ震える)せり」という文章で始まります。永州に来てよりずっと、罪人としての屈折した思いが常に柳宗元の心を支配していました。しかしその屈折した思いこそが、柳宗元の文学の源でもあったのです。永州に左遷され十年の年月が過ぎた頃、柳宗元に突然都から召喚の知らせが届きます。赦免されることを期待して急ぎ都長安に帰りますが、柳宗元を待ち受けていたのは、さらなる遠方の地である柳州(広西壮族自治区)への左遷でした。
韓愈が地方に左遷させられた後に数年で中央政界に復帰したのとは対象的に、柳宗元は中央政界に復帰することなく四十七歳の時に柳州で亡くなりました。韓愈と柳宗元は文体改革の同志であり、韓愈は柳宗元の文学のよき理解者でした。柳宗元の死後、韓愈はその墓誌銘に次の文章を刻みました。「柳宗元がもし長期間放逐されず、極度に困窮していなかったら、いくら人に抜きん出た才能があろうと、彼の文学作品は、必ずや自分の努力だけでは、後世にまで伝わる程にはならなかったに違いない。彼がたとえ願い通りに将軍宰相として一時ときめいていたとしても、この文学上の成功と比べて、どちらが得か失か、知る人ぞ知るというものだ。」柳宗元は政治家としては不遇でした。しかしその不遇こそが彼の文学を大成させたというのです。
エリートの屈折した心が投影された「江雪」
「江雪」は柳宗元の代表的な詩です。永州で作った作品と言われますが、永州は温暖な気候で冬でも滅多に雪が降りません。しかし柳宗元が永州に来て二年目、元和二年(八〇七)に南方では珍しく大雪が降りました。「江雪」は、その時に作った詩であろうとの推測もありますが、柳宗元の屈折した心が作り出した心象風景と解釈したほうが正しいように思います。柳宗元の人生を知らず、この詩だけを詠めば、雪がしんしんと降る音のない白一色の世界に、一人釣り糸を垂れる隠者の光景が思い浮かびます。なんだそれだけのことかと思ってしまう平凡な光景です。この詩の本当の味わいは、政争に敗れ、罪人として流刑地にあるエリート官僚柳宗元の屈折した心が投影されているところにあります。柳宗元の人生を知らずして味わい得ない詩です。
「千山鳥飛絶・あらゆる山々から鳥の飛ぶ姿が見えなくなり」華麗な服装の高貴な人々が行き交う、活気と喧騒に満ちた都から遠く離れ、私は今、ただ静かなだけの永州にいる。
「萬径人蹤滅・すべての道から人の足音が消えてしまった」志を同じくして、ともに改革への道を突き進んだ友人達も、進むべき道を失いすべていなくなってしまった。
「孤舟蓑笠翁・一艘の小舟に蓑笠をつけた老人が乗っている」私は、屈辱の思いで一人流刑の地にいる。
「独釣寒江雪・降りしきる雪の中、凍える寒い川で一人釣りをする」一人降りしきる雪の中で釣り糸を垂れ、来るはずもない都からの赦免の知らせをただじっと待っている。
降りしきる雪の中、竿先から垂れるその糸の先には針も餌もついていません。それでもただじっと竿先を見つめ、糸を垂らし続けるのです。釣れないとわかっている魚を寒さに耐えながらただじっと待つその姿が、この五言絶句の二十字からしんしんと伝わってきます。
「江雪」五言絶句二十文字の漢字の並びの美しさ
韓愈の七言律詩に続き、柳宗元の五言絶句も書き下し文だけでなく漢文を載せました。「江雪」の五言絶句二十文字の漢字の並びは、漢詩の中でも極めて美しい漢字の並びだと感じます。この美しい漢字の並びをながめていると、心象風景が見えてきます。漢詩の書き下し文には文字並びの美しさは感じません。また散文の漢字の並びにも感じられません。漢字が漢詩という形を取った時、何か特別に不思議な美しさと力が与えられるようです。特に五言絶句の名詩に漢字の並びの美しさを感じます。杜甫の五言絶句は特に素晴らしい。漢詩で漢字の並びを眺める場合は、必ず縦書きの正式な漢詩で眺めてください。横書きは不可です。漢詩の母国である中国は、漢字を簡略化して簡体字なるものを作り、しかもすべての文書は左からの横書きになりました。これでは漢詩を眺めてその漢字の並びの美しさを感じることはできません。なんともったいないことをしたものでしょう。
室町時代に活躍した日本を代表する水墨画家と言えば雪舟です。雪舟の名はこの「江雪」から取られたといわれます。雪舟も「江雪」の漢字の並びの美しさに心を打たれた一人だったのではないでしょうか。しんしんと雪の降り続く音のない世界に一艘の小舟が浮かんでいる。心に浮かんだそんな心象風景を自分の名前にしたのです。
韓愈と柳宗元
韓愈、柳宗元と中唐の文人官僚の漢詩を続けて取り上げました。本来なら文体改革の先駆者となった二人ですから、その文章から名文を取り上げるべきなのでしょうが、あえて二人の代表的な詩を取り上げたのは、その詩を通して二人の生き方の違いが見えてくるからです。
韓愈と柳宗元は、二人とも遠方の僻地に左遷されるという憂き目にあっています。韓愈は数年で中央政界に復帰しましたが、柳宗元は中央に復帰できないまま流刑の地で亡くなりました。
韓愈の詩「左遷せられて藍関に至り姪孫湘に示す」からは、左遷されることを覚悟で皇帝へ諫言するという大胆な行動力、左遷されても変わらぬ強い信念、その硬骨漢がストレートに伝わってきます。韓愈は幼い頃に父が亡くなり、兄に育てられましたが、その兄も韓愈が十四歳の時に亡くなります。十九歳で科挙を受験するために都長安に出てきますが、身寄りもなく、日々の生活にも困窮するありさまでした。そんな中で、当時の有力武将馬燧が自分の亡くなった従兄の上官であったというそれだけの縁で、馬燧の外出を待ち受け、すがる思いで面会を求めました。そして必死に哀れみを乞い、何とか屋敷においてもらうという非常手段に打ってでます。韓愈はただの苦労人ではありませんでした。苦労の中で、生き延びるためにはどんなこともいとわない抜群の行動力としたたかさを養っていたのです。潮州への左遷という逆境にあっても、韓愈は中央政界への復帰のため、あらゆる手段を使って有力者に働きかけを行っていたと思います。韓愈の中央政界への奇跡の復帰は、逆境こそが自分を強くすると信じて行動した結果だったに違いありません。
一方、都生まれの都育ち、二十一歳の若さにして抜群の成績で科挙に合格した柳宗元は、自他ともに認める超エリートでした。挫折と苦労を知らずに生きてきただけに、正しいと信じたことは脇目もふらず突き進み、正義は必ず勝つと信じる、ある意味、楽天的理想主義者でした。そんな柳宗元が政治改革を目指すグループに属したことは必然だったのかもしれません。当初、皇太子の支持を得て順調に進んでいた政治改革も、皇太子が病で倒れるという思わぬアクシデントにより頓挫します。保守派の巻き返しは強烈で、改革派は政治の表舞台から一掃され、全員が地方の僻地へ左遷させられます。柳宗元にとってはじめての、そして人生最大の挫折でした。エリート意識が強かっただけに、永洲での日々はつらく厳しいものでした。それまで順風満帆だったエリートが、一転して逆境に陥った時の弱さは容易に想像できます。柳宗元は、永洲への左遷という現実を受け入れることができず、そうかといって逆境をはねのける意欲もなく、来るはずもない都からの赦免の知らせをひたすら待ちながら、文学の世界へ沈殿していったのです。
韓愈、柳宗元の二人が創始した古文の文体は、その後の宋の時代において大いに発展し、唐宋八大家と称される八人の文人が歴史に名をとどめました。それが、唐の韓愈・柳宗元、宋の欧陽脩・蘇洵・蘇軾・蘇轍・曽鞏・王安石の八人です。
参考文献
興膳宏著「中国名文選」 岩波新書
林田慎之助著「中国の詩人 柳宗元」集英社