風姿花伝・世阿弥

明治四十二年(1909年 この年に伊藤博文がハルピンで暗殺されます。)に歴史学者の吉田東伍が世阿弥の書き記した十六部の伝書を発見するまでは、「風姿花伝」は世間にその存在が全く知られていませんでした。「風姿花伝」は、それが書かれてより五百年間、その存在自体が秘事とされてきた日本でも希有な古典です。しかも吉田博士が筆写した伝書の原本が、その後の関東大震災により焼失してしまったという事実を知る時、伝書の発見とその筆写は将に歴史的快挙でした。そして、その後の多くの研究者の校訂作業を経て、今日私達が目にする風姿花伝が存在しています。

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<語句解説>

子孫への家訓の書「風姿花伝」

世阿弥は能の作品以外に二十一の伝書を書き残しました。風姿花伝はその最初の著作にして最も著名な伝書です。

風姿花伝は、室町時代に父観阿弥の教えを基にして世阿弥によって書かれた能の芸術論、理論書とされています。能というと、日本の伝統芸能の中でも取り分け高尚で庶民には敷居が高いものに感じられます。ましてその芸術論、理論書となれば、哲学書にも似た難解さをイメージしてしまうのではないでしょうか。

しかし著者世阿弥は、能を芸術として論ずるために風姿花伝を著したのではありません。世阿弥は「奥義に云はく」の冒頭で、「風姿花伝の条々は、すべて他人に見られぬように子孫への家訓のために書き記したものである」述べています。風姿花伝は、子孫への家訓書として書き記したものであるが、その直接的な著述の動機は、若手役者の芸に対する姿勢への不満、風紀の乱れへの怒りであり、それらを正し、正当な芸の道を子孫に伝えるためにこれを書き記したというのです。

つまり「風姿花伝」は、広く一般の人に読んでもらうために書かれた伝書ではありません。観世家の芸を継承する者に、その芸の奥義を伝えるため書かれた秘伝の家訓書なのです。ですから、そこに世阿弥から子孫に向けた様々なメッセージが読み取れます。そして世阿弥が発したこのメッセージの意図を読み解く時、六百年前の世阿弥の言葉は、今を生きる私たちにも数々の有益な示唆を与えてくれます。

世阿弥の生涯

世阿弥(世阿弥の名は、時宗の法名である世阿弥陀仏が略されたもので、足利義満から与えられました。本名は観世元清です)は、猿楽観世一座の棟梁観阿弥の長男として大和国(奈良県)に生まれました。生年は南北朝時代の貞治二年・1363年とされています。少年時代の世阿弥は抜群の美少年で、当代一の教養人で歌人としても知られる公家の二条良基は、これに「藤若」の名を贈ります。少年藤若は歌の才能にすぐれ、公家との交際を通じて高い教養を身につけました。将軍足利義満はそんな藤若を寵愛し、宴席で側近くに控えさせ直接杯をさずけるほどでした。当時の猿楽師の身分は低く「猿楽は乞食の所行なり」とも言われていましたので、そうした様子を見て眉をひそめる者も多くいました。しかし、室町幕府の諸大名は、将軍お気に入りの藤若に巨万の贈り物をしてそのご機嫌をうかがったという記録が残っています。世阿弥の少年時代は、父観阿弥の芸の絶頂期であり、将軍義満の庇護による観世一座の興隆とも相まって、父観阿弥のもとで世阿弥はその才能を大きく開花させました。観阿弥が亡くなった後も世阿弥はその芸を進化させ、父の死後、観世大夫(観世一座の棟梁)となり一座を率いるようになってからは、能の作品を創作するだけでなく、風姿花伝、花鏡をはじめとする伝書・芸術論を積極的に執筆しました。しかし義満が亡くなると次の将軍義持は田楽を愛好し、世阿弥と観世一座を厚遇しませんでした。義持の次の権力者足利義教は、世阿弥とその長男元雅を嫌い露骨な圧迫を加えます。長男元雅が伊勢で巡業中に突然に亡くなると、七十二歳の世阿弥は佐渡に流刑となります。後に許されて帰京したと伝わっていますが、没年などは不明です。

世阿弥以後現代までの能

観阿弥と世阿弥の時代は、物まねを得意とした大和猿楽と幽玄の趣の強い近江猿楽が人気を競った時代でした。しかし、その後、近江猿楽は大和猿楽に押されて衰退し、大和猿楽四座(観世、金春、金剛、宝生)が猿楽を継承していきます。応仁の乱以降は、室町幕府が衰退し足利将軍家の庇護はなくなりますが、有力な戦国大名が猿楽を愛好し、ひいきの座を保護しました。豊臣秀吉は金春座を、徳川家康は観世座を保護しました。特に家康と観世座のつながりは深く、家康が浜松城主であった時代、三方原で武田信玄に大敗した家康は命からがら城へ逃げ帰ります。その時城内には室町幕府の衰退により京より浜松におもむき家康の保護を受けていた七世観世大夫観世元忠がいました。元忠は、徳川の旧名松平の松にちなんで、相生の松を題材とした謡曲「高砂」を謡い、意気消沈した家康を勇気づけました。以後徳川時代を通じて正月の幕府の謡初めでは「高砂」が謡われることになります。江戸時代に入ると、猿楽は幕府、諸大名の保護を受け盛んとなります。多くの大名家がお抱えの猿楽師を持ち、お祝いの席や接待で能が催されました。江戸時代初期には金剛座より喜多流が分かれ一流派をなします。ここに現在にいたる四座一流の猿楽の系譜が確立しました。中でも徳川氏との縁の深かった観世座は江戸時代を通じて四座一流の筆頭としてその権威を保持しました。江戸時代を通じて幕府と大名から支援を受けていた猿楽は、明治維新によって衰退し存続の危機に立たされます。しかし世の情勢が安定してくると、旧大名家の華族を中心に猿楽を再興させようという機運が高まり、芝公園の敷地内に能楽堂(現在の靖国神社の能楽堂)が作られ能楽社が設立されました。それ以降は能楽社の名前から猿楽を能楽と呼ぶようになります。江戸時代までは狂言も猿楽に含まれていましたが、現在では、滑稽味を洗練させた笑い劇である「狂言」に比して、超自然的なものを題材とした高尚な歌舞劇を「能」といいます。)

翁奉納春日神社(丹波篠山市)Wikipedia

花を知る事

今回取り上げた風姿花伝の文章は、「花伝第七 別紙口伝」の書き出しの文章「この口伝に、花を知る事。まづ、仮令、花の咲を見て、万に花と譬へ始めし理をわきまうべし。(この別紙口伝の目的は、花・能の花とは何か・その本質を知ることである。まず、たとえば、植物の花の咲く有様を見て、万事花とたとえ始めた理由を理解すべきである)」に続く文章です。

そもそも、(植物の)花というものは、あらゆる草木の花がそうであるが、春に咲く花、夏に咲く花、秋に咲く花、冬に咲く花と四季それぞれに咲くものであり、春夏秋冬、その咲く時を与えられているから、その花が珍しく、新鮮に感じるのであり、人もそれを喜ぶのだ。同じように能も、観客の心にそれが珍しく新鮮だと感じるところが、すなわち面白いと感じる心なのだ。花と面白さと珍しさ、この三つは同じものだ。四季に咲く花でどんな花が散ることなく残るというのか。花は散るからこそ、咲く頃があり珍しく新鮮なのである。能も、四季に咲く花と同じく一つのことに停滞しない(同じことばかり繰り返さない)のを、まず花(大事である)と知るべきである。一つのことに停滞せず(同じ演目ばかり繰り返さず)、次々と他の演目に移れば、新鮮さは失われないのである。

世阿弥は役者個人として芸の奥義をただ極めようとしたのではありません。観世一座の棟梁として、猿楽興行を成功させるにはどうすればよいかを常に考えていました。観客を満足させる興行のあり方、今で言うマネージメント戦略を練ることは、一座の棟梁の責任であると認識していたのです。芸においても、役者本人がいかにうまく演じたと思っても、観客にうまいと思わせる工夫がなければ、それは無駄な芸であると言い切っています。いくら技術的にすごいものを作っても、それが売れるものでなければ意味がない。そう考える経営者が六百年前の日本にいたのです。そして、世阿弥が子孫に伝えようとしたのも、まさにそのことでした。

「芸の面白さは、珍しさ、新しさにある」観客が面白いと感じることの本質は、珍しさ、新しさ(新鮮さ)であると世阿弥は見抜いていました。同じ演目ばかりを繰り返していると飽きられてしまう。同じ演目を繰り返すことなく、新しい演目を次々に演じてこそ、観客はおもしろいと感じてくれるのです。桜は春に咲き、そして春に散る。桜は春の中でこそ美しいのです。夏になってもまだ咲いている桜を誰が美しいと思うでしょうか。春は桜、夏は朝顔、秋は菊と季節が移り変わる中に、その季節に咲く花の美しさがあります。

住する所なきを、まづ花と知るべし

「住する」は、同じ状態に長くとどまること、一つところに安住することをいいます。もともとは禅語です。禅宗でよく読まれる金剛般若経に「応無所住 而生其心(応に住する所なくして、しかも其の心を生ずべし)」という一節があります。中国禅宗の六祖慧能はこの一節に大悟して出家したと伝えられています。

唯心の教えでは「あらゆる事物、事象、すべての人々、仏さえも、私達一人一人の心が描き出す画像に他ならない」とされていました(華厳経・唯心偈を参照)。なるほど、私達にとって心はとても大切なものであり、心の存在を否定する人はいません。しかしその心をつかもうとしてもそれがどこにあるかわかりません。いったい私達の心とはどういうものなのか?その問いに「金剛般若経」は般若の智慧で応えてくれます。心はどこかにじっとして在るものではない。心は一瞬一瞬に生じては滅し、滅しては生じるものである。ただ縁によって結ばれる一瞬一瞬の無常の相、それが心の本質であると。だから心というのは、無住(住する所なし)なのです。心を留まらせてはいけない。心がどこかに留まるとそこに執着と欲望が生まれ、それは迷いと苦しみの根源となります。

芥川賞作家で禅僧でもある玄侑宗久さんは、「応無所在 而生其心(応に住する所なくして、しかも其の心を生ずべし)」の一節について、次の様に解説されています。「『其の心』とは、私達が本来もっている素晴らしい心のこと。私達がその本来の素晴らしい心を取り戻すためには、『住する所がない』状態にしなければならない。『住する』とは、何かにこだわること、そこに気持ちを向けて心が淀んでしまうこと。それがなくなったときに、初めて本当に生き生きとした素晴らしい心が生じてくる。」なるほどとうなずける素晴らしい解説です。

世阿弥のいう「能も、住する所なきを、まづ花と知るべし」も、「応無所在 而生其心(応に住する所なくして、しかもその心を生ずべし)」を基にしています。室町時代は様々な分野に禅が影響を及ぼし禅文化が花開きました。世阿弥が禅の知識を豊富に持っていたことは風姿花伝の著述を通じてわかります。世阿弥自身も禅の修行を積んでいました。世阿弥は禅を積極的に芸の中に取り入れました。室町時代の他の芸術と同じく、猿楽(能)も禅から多くの影響を受けています。

参考文献
竹本幹夫訳注「風姿花伝・三道」 角川ソフィア文庫
土屋恵一郎著「世阿弥 風姿花伝」NHK出版
白洲正子著「世阿弥」講談社文芸文庫
白洲正子著「風姿抄 世阿弥を語る」世界文化社
鎌田茂雄著「禅とは何か」講談社学術文庫