葉隠・山本常朝

葉隠は佐賀藩士山本常朝(1659年〜1719年)が主君の死去に伴い出家隠棲した後に、その庵を佐賀藩士田代陣基が訪ね、七年の年月をかけてその言説を記録した口述記録です。山本常朝が生きた時代は、戦国の世が終わり幕藩体制が確立した時代でした。太平の世においていかにして武士道を繋ぎ止めるか。常朝がおよそ二十歳若い田代陣基に語ったのはそのことでした。

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<語句解説>

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<語句解説>

武士道というは、死ぬ事と見付けたり。

葉隠と聞いてまず頭に浮かぶのが武士道というは、死ぬ事と見付けたりという一文です。われわれの武士道に対するイメージはこの一文で定まったといっても過言ではありません。

葉隠は佐賀藩士山本常朝(1659年〜1719年)が主君の死去に伴い出家隠棲した後に、その庵を佐賀藩士田代陣基が訪ね、七年の年月をかけてその言説を記録した口述記録です。山本常朝が生きた時代を徳川将軍に当てはめれば、四代将軍家綱から八代将軍吉宗の時代までに相当します。幕藩体制が確立して長く平和が続いた時代でした。そうなると自然に戦国の気風が薄れ、武士はサラリーマン化していきます。常朝自身も自らが佐賀藩に仕える中で、太平の世が続く限り武士道は衰えていくことを感じ取っていたに違いありません。太平の世においていかにして武士道を繋ぎ止めるか。常朝がおよそ二十歳若い田代陣基に語ったのはそのことでした。

電子読本「葉隠」聞書第一 二を現代語訳で読んでみます。

武士道というのは、死ぬことであると悟った。生死をかけた戦いの場においては、早く死ぬ方を選ぶだけだ。別に理由があるわけではない。覚悟を決めて進むのである。戦いに敗れたら犬死であるなどというのは、上方風の気位ばかりが高い武道である。生死をかけた戦いの場においては、必ず勝つという保証などどこにもない。人間誰しも死ぬよりは生きていたい。生きるためであればどんな理屈も考えつくだろう。もし戦いに敗れ理屈をつけて生き延びたなら臆病者と罵られる。ここが難しいところである。戦いに敗れて死んだなら、犬死だ気違いだと罵られても、死人に口なしで言い訳できないので恥にならない。これが武道を心得た者がとるべき態度である。毎朝毎夕、新たな気持ちで死に向き合い、また新たな気持ちで死に向き合い、常に心身が死と一体になっているときは、武道は自由自在の境地を得て、一生涯落ち度なく、家の職務を全うできるだろう。

天下泰平の世にあって「二つ二つの場(生死をかけた戦いの場)」とは、私闘、つまるところ喧嘩です。喧嘩は命をかけて死ぬ気でやれと言っているのです。「喧嘩ごときで死ぬのは犬死だ」というのは、上方風(都会風)の気位ばかりが高い武道だとも批判しています。戦いでも喧嘩でも絶対に勝つ保証などどこにもない。死にたくないからと負けておめおめ生き延びれば臆病者とそしられる。負けても死ねばもはや恥ではない。「武士ならば負ければ必ず死ぬという覚悟を持って戦え」というのが常朝の信念でした。勝ち負けは武士道とは関係ありません。故に「武士道というは、死ぬ事と見付けたり」なのです。ではその「死の覚悟」はどのようにして養うかといえば、毎朝毎夕、新たな気持ちで死に向き合い、また新たな気持ちで死に向き合い、「常住死身(常に心身が死と一体になっている状態)」になれといいます。これは「死を自覚することのない生き方はただの遊戯にすぎない」という意味に解釈されています。実に観念的で精神論的です。ですから「常住死身」をわが身をもって実践し得たのは、あの三島由紀夫くらいのものだったのではないでしょうか。

宮本武蔵と山本常朝

宮本武蔵は「五輪書」地の巻で、次のように述べています。(名文電子読本・五輪書)

だいたい、武士の武士たる所以を考えてみるに、武士はいつでも死ぬ覚悟ができているから武士であると一般に考えられている。けれども、死の覚悟においては、武士ばかりに限らず、僧侶であれ、女であれ、百姓以下に至るまで、義理を知り、恥を思い、死を決心することは、そこに変わりはないのである。武士が兵法の道に励むのは、何事も人に勝つことを根本として、あるいは一人の敵との斬り合いに勝ち、あるいは数人の敵との戦いに勝ち、主君のため、立身出世を思うこと。これが兵法の功徳である。

武蔵は「死の覚悟」は武士だけが持つものではないといっています。天草の乱に出陣した武蔵は、死を恐れず勇敢に戦う農民の姿に衝撃をうけます。「死の覚悟においては、武士も農民も変わらない」これは武蔵の実際の体験に基づいた言葉です。

「武士が兵法の道に励むのは、何事も人に勝つことを根本として」武蔵が兵法の道を通して目指したもの、それは唯一「勝つ」ことでした。武蔵は五輪書・火の巻を次の言葉で結んでいます。「剣術実の道になりて、敵と戦ひ勝つ事、此法聊か替る事有るべからず。(剣術の正しい道とは、敵と戦って勝つことである。これはいささかも変わることがあってはならない。)」そして武蔵が勝つために実践したのが、千日の稽古をもって鍛となし、万日の稽古をもって練となす。「朝鍛夕練(毎日欠かすことなく続ける激しい稽古)」でした。武蔵は朝鍛夕練によって自分への絶対的自信と信頼を得たのです。

宮本武蔵は兵法者と六十回以上勝負して一度も負けませんでした。関ヶ原の戦い、大阪の陣、天草の乱に出陣して実戦経験も豊富でした。しかし生涯大名に仕えることはなく、主君を持ちませんでした。細川家へは客分として滞在していたにすぎません。

宮本武蔵は戦国の空気の中で育ち、たった一人で戦いながら兵法の道を極めていきました。武蔵が亡くなって十四年後に山本常朝は太平の世に生まれます。そして太平の世で主君に仕え、太平の世における武士道の何たるかを追求していきました。

あくまで五輪書と葉隠を代表するこの二つの文章に限ったことですが、「勝つこと(武蔵)」と「死ぬこと(常朝)」「朝鍛夕練(武蔵)」と「常住死身(常朝)」。武蔵の文章は自らの体験に基づいて具体的です。一方常朝の文章は非常に観念的です。武蔵の文章が具体性に優れていると感じる人には、常朝の文章は観念的すぎると思えるでしょう。葉隠は膨大な文章の書です。この章だけをもって常朝の文章が観念的で具体性に乏しいと断じることはできません。葉隠を愛読し入門書まで書いた三島由紀夫は「葉隠入門」のなかで次のように述べています。「これは行動と知恵と決意がおのずと逆説を生む類のない不思議な道徳書である。いかにも精気にあふれ、いかにも明朗な人間的な書物である。」 

結局武士道というは、死ぬ事と見付けたりという葉隠の言葉は、明治以後の軍国化の中で日本人の心をとらえ、それは武士道を超えた大和魂にまで拡大していきました。第二次対戦中に軍人だけでなく民間人にまで強要された「生きて虜囚の辱めを受けることなかれ」は、葉隠のこの言葉を原点にしています。それが日本軍の玉砕、サイパンや沖縄での民間人の集団自決を引き起こしたといっても過言ではありません。

山本常朝・Wikipedia

死に狂いの思想

電子読本「葉隠」聞書第一 百十四を現代語訳で読んでみます。

武士道とは死に狂いである。死に狂いになった一人の武士を数十人でも殺すことはできないと藩祖直茂公はおっしゃった。正気では大きな仕事は成し遂げられない。気違いになって死に狂いするまでである。また武士道においては、考えを巡らせたなら、もうその時点で後れをとっている。忠も孝も考えなくてよい。武道においてはただ死に狂いである。この中に忠孝は自ずから内包されている。

「武士道は死に狂い也」という一文は、葉隠を代表する一文「武士道というは、死ぬ事と見つけたり」よりも短く簡潔でありながらも具体的で説得力に富んでいます。「死に狂い」とは「死に物狂い」のことです。常朝は「死に狂いになればこそ大事を成し遂げることができる」というのです。現代人が最も嫌う精神論ですが、この言葉にはなぜか納得してしまう不思議な魅力があります。正気(正常な意識)では大きな仕事は成し遂げられない。正気を失った異常な意識こそが大事を成し遂げる。歴史を振り返れば、まさにその通りです。死に狂いとは考えを巡らせないことだともいっています。善い悪いなど考えたなら死に狂いにはなれない。死に狂いの中に善悪がある。戦争であれ、喧嘩であれ、善悪は死に狂いの中にあります。あれこれ善悪を考えていれば、死に狂いの相手に切り殺されるだけです。

電子古典読書会のホームサイトに、フランスの社会心理学者ル・ボンが著した「群衆心理」と山本常朝の「葉隠」から、その共通する思想につながる文章を、「大事は狂気のなせるわざ」山本常朝「葉隠」・「指導者は半狂人の中から現れる」ル・ボン「群衆心理」と題して紹介しています。

「死に狂い」は、宮本武蔵であれば決して口にしない言葉です。武蔵は、戦う相手の情報を集め、戦う場を下見し、戦う時を考え、勝つための工夫や準備を万全に整えてから戦いに臨みました。戦う前に勝つことを最善としたのです。武蔵が生涯六十回以上の勝負をして一度も負けなかったは、負ける戦い、勝ち目のない勝負をしなかったからです。ですから勝つ見込みもないのに、ただがむしゃらに死に狂いするなどバカのやることと軽蔑していました。逆に山本常朝は「勝つためなら何でもやる」という武蔵の戦い方を「金のためなら何でもやる」と同じ感覚で軽蔑していたはずです。

これが武蔵の「兵法の道」と常朝の「武士道」の違いです。武蔵の「兵法の道」は勝つためにあります。常朝の「武士道」に勝ち負けは関係ありません。武士道とは死に狂いになって死ぬだけです。

會津八一の學規

深くこの生を愛すべし

顧みて己を知るべし

学芸を以てその性を養うべし

日々新面目あるべし


秋艸道人・しゅうそうどうじん(會津八一の号)

會津八一(1881年〜1956年)は、明治・大正・昭和に早稲田中学・早稲田高等学院・早稲田大学で教鞭をとった教育者です。この學規は、早稲田中学の教師であった三十三歳の會津八一が、同居する三人の書生のために作りました。

この年はヨーロッパで第一次大戦が勃発し、日本も日英同盟を理由に参戦しました。日清戦争・日露戦争に勝利して軍事の優秀さを世界に見せつけた日本にとって、第一次大戦への参戦は世界の大国に躍り出るチャンスでもありました。時代の雰囲気は、まさに「武士道というは、死ぬ事と見付けたり」だったのです。そのような時代風潮の中で「深くこの生を愛すべし」という言葉を掲げたのが會津八一でした。

會津八一・Wikipedia

會津八一の「學規」について知るには以下のサイトにアクセスしてください。

● 青空文庫 會津八一「學規」

● 早稲田大学 會津八一記念博物館「學規」