名文とは「永訣の朝」・宮沢賢治

名文は、ただ有名な文章、立派な文章、美しい文章というだけでありません。その作品のイメージを決めるカギとなる重要な文章です。それは名文である故に、その作品の中で重要な働きをしています。

宮沢賢治の「永訣の朝」からそれを読み取ってみましょう。

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宮沢賢治が永訣」の二文字に込めたもの

ここに取り上げられている二つの文章は、宮沢賢治「永訣の朝」最初と最後の文章です。

名文電子読本の次ページから3ページにわたり「永訣の朝」の全文を掲載しています。 

「永訣の朝」は、「雨ニモマケズ」とともに宮沢賢治の詩を代表する評価の高い作品です。その書き出しの最初の文章「けふのうちにとほくにいってしまうわたくしのいもうとよ」は、名文として知られています。「永訣の朝」と言えば、まず書き出しのこの短い一文が頭に浮かびます。宮沢賢治らしい心にしみる悲しみの表現です。

この書き出しの名文が「永訣(永遠の別れ)」という深い悲しみのイメージを読者の心の中にわきあがらせます。それに加えて妹とし子の発した「あめゆじゆとてちてけんじや(雨雪・みぞれを取って来てください。)」、この東北地方の方言が「末期の水を準備してください」という意味を含んでいるなら、悲しみはその極みに達します。そして読者は、その深い悲しみのイメージ(印象)を作者(宮沢賢治)と共有しながらこの作品を読み進めることになります。この書き出しの文章は、この作品のイメージ(印象)を決めるカギとなる重要な一文です。

そして、賢治の悲しみは妹が最後に口にする二碗の雪を取りに行くことで祈りへと昇華します。祈ることで妹の命を救うことはできないけれど、祈ることでその魂を救うことができる。病気でこれだけ苦しんだ妹が、天に召されて後は苦しみから解放され、その魂に安らぎが訪れることを切実に祈ったのです。この二碗の雪は妹の魂に安らぎをもたらしてくれるはずのものでした。

あいつがなくなつてからあとのよるひる
わたしはただ一どたりと
あいつだけがいいとこに行けばいいと
さういのりはしなかつたとおもいます
            「青森挽歌」


宮沢賢治にとって、祈りとはすべての人を救うものでなくてはなりませんでした。賢治は、すべての人が救われることでその一人も救われるという平等思想を持っていました。そしてこの平等思想は「すべての人が平等に仏となる(救われる)」という、賢治が深く信仰した法華経の教えによるものでした。

おまへがたべるこのふたわんのゆきに
わたくしはいまこころからいのる
どうかこれが兜率の天の食に変わって
やがておまへとみんなとに聖い資糧をもたらすことを
わたくしのすべてのさいはひをかけてねがふ

賢治の祈りが読む者の心にしみ込んできます。祈りが作品全体を包み込み、同時に読者をも深い祈りへと誘います。この最後の祈りも、この作品のイメージ(印象)を決めるカギとなる重要な文章です。

では宮沢賢治の「永訣の朝」は、いったいどのようなイメージの作品ととらえればよいのでしょうか?

宮沢賢治は、「永訣」の二文字の中に、悲しみと祈り、二つの意味を込めたのだと思います。永訣(永遠の別れ)が生みだす悲しみと祈り。そして、悲しみなくして祈りはありませんでした。

「永訣の朝」は、「悲しみ」と「祈り」をテーマにした作品です。心にわきあがった作品全体を包み込む深い悲しみが、妹だけでなく、すべての人たちの魂を救済する心からの祈りに到達します。そして作品全体が祈りに包まれるのです。

1924年1月12日撮影 宮沢賢治・Wikipedia

以下「永訣の朝」全文を朗読音声とともに掲載しています。
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<語句解説>

名文とは

名文は、ただ有名な文章、立派な文章、美しい文章というだけでありません。その作品のイメージを決めるカギとなる重要な文章です。それは名文である故に、その作品の中で重要な働きをしています。

名作の書き出し(冒頭)の文章は名文が多いといわれます。枕草子、平家物語、方丈記、徒然草、これらの作品の書き出しの文章は、いずれも日本人なら誰もが知る名文です。暗記している方も多いかと思います。

祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。奢れる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。猛き者も遂には滅びぬ、偏に風の前の塵におなじ。

ご存知、平家物語の書き出しの文章です。この書き出しの名文に平家物語のすべてが凝縮されているわけではありませんが、この文章が平家物語という作品のイメージ(印象)を決める重要な一文であることは否定できません。私たちは平家物語と聞けば、まずこの書き出しの文章を思い出します。「諸行無常」この世は常に移り変わり一瞬たりとも同じではない。「盛者必衰」勢い盛んな者もいつか必ず滅び去る。流転する万物をあるがままに見つめ、あらゆるものはいずれ朽ち、そして滅び去る。この事実を受容する時、「滅びゆくものこそ美しい」「滅び去るものこそ愛おしい」滅びゆく過程に美をとらえ、滅び去るものに愛情を注ぐことができるのです。花は散るからこそ美しい。平家物語の「滅びの美学」がこの書き出しの名文の中に凝縮されています。

山路を登りながら、こう考えた。智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。

夏目漱石の草枕の冒頭の一文です。夏目漱石の作品の中でも名文として知られる文章です。そして、この文章そのものが智に働く文章です。「どうだ俺の智は」という角が立つ文章です。ただし決して悪い意味でそう読めるのではなく、この智を捻ったような角の立ち方がこの名文の魅力であり、作品全体にもそれを期待させるのです。

作品の冒頭、書き出しの文章が名文であることが名作の条件というわけではないでしょうが、書き出しの名文が、作品全体のイメージに大きな影響を与えるのは確かです。紀行文の最高傑作とされる松尾芭蕉の「おくの細道」は、その書き出しの文章(最初の章・漂泊の思ひ)によって、作品のイメージだけでなく作者である松尾芭蕉その人までも強く印象づけています。その書き出しが名文とされる所以はそこにあります。

今自分はどの古典をを読むべきか、名文に選択を委ねる。

古典を読む楽しみの一つは、名文に出会うことです。心にしみる名文、心をふるわせる名文、そうかと思わず膝を打つ名文、姿勢を正し気持ちを引き締めて読む名文、いつのまにか幻想的な世界に運んでくれる名文・・・・そんな名文に出会う喜びがあればこそ、古典は連綿と読み継がれてきました。

名文電子読本では日本人に読み継がれてきた古典の中から名文を取り上げ、それをデジタルで紹介していきます。文芸作品に限らず、宗教・思想を含む広い分野の古典から名文を取り上げました。名文と言ってもそれは主観的なものですが、概ね世評にしたがって名文とされる文章を取り上げています。

名文だけ読んでその古典を理解したことにはなりませんが、名文でその古典のイメージ(印象)がつかめれば、自分が読むべき古典を選別することができます。世に古典は数多く存在します。今自分は何を読むべきか、名文に選択を委ねてもよいと思います。名文電子読本が、みなさんが今読むべき古典の選択の一助になれば幸いです。