五輪書・宮本武蔵
宮本武蔵の実像に迫る
かつて日本人が持つ宮本武蔵のイメージといえば、吉川英治の小説「宮本武蔵」とそれを原作にして制作された映画、テレビドラマを通して作られたものでした。半世紀前、日本人は吉川英治の「宮本武蔵」を読みながら、それを原作とした映画やテレビドラマを観ながら、巌流島での武蔵と佐々木小次郎との対決に血わき胸踊らせました。宮本武蔵は、今のアニメのヒーローにも似た存在だったのです。もちろんそれは、小説、映画、テレビドラマが作り出した虚像です。真実の宮本武蔵は、武蔵自身が著した「五輪書」の中にこそ存在します。「五輪書」は、宮本武蔵の実像と思想を伝える書です。
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「五輪書」の構成
「五輪書」は、地・火・水・風・空の五巻からなります。地・火・水・風・空の五輪は、仏教では万物を構成する要素です。しかし「五輪書」五巻のそれぞれの意味はそれとは関係なく、宮本武蔵独自の意味で使われています。武蔵は「地の巻」の中で、「一、此兵法の書、五巻に仕立つる事」として、地・火・水・風・空それぞれの巻の意味を示しています。
「地の巻」は、「直なる道」の地盤を固める巻で、兵法が剣術だけでなく、武士の法のすべてに関わるものであることを述べる。
「水の巻」は、入れる器に従って変化し、一滴となり、大海ともなる水のイメージによりながら、兵法の道の核であり、さまざまに応用できるものとして、「剣術一通りの理」を説くのである。
「火の巻」は、小さな火でもたちまちのうちに大きく燃え広がる火のイメージによって、剣術の一人での勝負の理が、万人の合戦の場面にもそのまま通じることを示す。
「風の巻」は、「その家々の風」として、世にある他の流派の間違っているところを書く。
「空の巻」は、究極では「道理を得ては、道理を離れ」、「おのれと実の道に入ることを、空の巻にして書きとどむるもの也」とまとめている。
以上、魚住孝至著「宮本武蔵」岩波新書 P124〜P125より
「地の巻」書き出しの文章
名文電子読本の本文に入る前に、「地の巻」の書き出しの文章を読んでおきます。この書き出しの文章は「五輪書」全体の序にあたります。「序章」として独立させてもよい内容です。
「兵法の道、二天一流と号し、数年鍛錬の事、初めて書物に顕さんと思い、時に寛永二十年十月上旬の比、九州肥後の地岩戸山に上り、天を拝し、観音を礼し、仏前にむかい、生国播磨の武士新免武蔵守藤原の玄信、年つもって六十。(わが兵法の道を二天一流と名乗る。長年の鍛錬で得た事を、初めて書きあらわそうと思う。時に寛永二十年十月上旬、九州肥後の岩戸山に上り、天を拝し、観音を礼し、仏前に向かい筆を取った。自分は播磨国に生まれた武士で新免武蔵守藤原の玄信、年は六十である)」
上記の如く自己紹介した後、次のように自分の人生の歩みを語ります。「自分は若い頃から兵法の道を心がけ、十三歳で有馬喜兵衛という兵法者に打ち勝ち、以後二十八、九歳まで諸国を回って六十回ほど勝負をしたが、一度も負けたことはなかった。しかし自分が勝てたのは兵法を極めたからではない。才能に恵まれ天の理にかなっていたからか、他流の武芸が不十分だった(相手が弱かった)からにすぎない。その後、一層深く兵法の道理を得ようと朝鍛夕錬(毎日不断に継続する稽古)し、おのずと兵法の道に達した。私が五十歳の頃である。それ以後は極めるべき道もなくなり月日を送っている」以下再び原文とともにご紹介します。
「兵法の利にまかせて、諸芸・諸能の道となせば、万事において、我に師匠なし。今此書を作るといへども、仏法・儒道の古語をもからず、軍記・軍法の古きことをももちいず、此一流の見たて、実の心を顕す事、天道と観世音を鏡として、十月十日の夜寅の一てんに、筆をとつて書初むるもの也。(自分は兵法の道で得たものに従って、絵画・茶の湯・連歌など、もろもろの芸能の道としているのであるから、あらゆることにおいて、私に師匠はいない。今、この書を書くにあたっても、仏教、儒教、道教の古い言葉を使わず、軍記・軍法の故事を用いず、この二天一流の考え、真実の意味を書きあらわす事において、天と観世音菩薩を前にして、十月十日の夜午前四時三十分に、筆を取って書き初めたのである)」
自分への絶対的自信と信頼
名作の書き出しは名文が多いですが、この「五輪書」の序とも言える書き出しの文章は、著者宮本武蔵の実像とその思想がコンパクトにまとめられており、読む者の興味を駆り立てる個性ある名文です。
「天を拝し、観音を礼し、仏前にむかい」とは「自らが無心となって」という意味であり、「天道と観世音を鏡として」とは「自らの真実を語る」ということです。(鎌田茂雄全訳注「五輪書」講談社学術文庫 P43)宮本武蔵が死の直前に書いた「独行道」という二十一の短文を箇条書きにした自誓の書があります。(魚住孝至著「宮本武蔵」岩波新書P118〜P119に「独行道」の全文が掲載されています)その中に「仏神は貴し、仏神をたのまず」という一行があり、武蔵の宗教観をうかがい知ることができます。武蔵は仏神を否定する無神論者ではありません。仏神を敬い尊重していました。しかし仏神をたのむことをしませんでした。多くの日本人にとっては、たのめばそのたのみに応えてくれる(ご利益がある)から、仏神は敬いの対象でした。しかし武蔵は「仏神をたのむ、それこそが弱さだ」そう考えていたのです。では武蔵は何をたのんだ(拠り所にした)のかと言えば、自己のみ、自分だけをたよった(拠り所にした)のです。これは、自分自身を常に鍛え、自分に絶対的自信を持っていなければできることではありません。武蔵の思想は、この自分への絶対的自信と信頼を根底にしたものでした。
では、武蔵の自分への絶対的自信と信頼は何によっているのかといえば、それは、千日の稽古をもって鍛となし、万日の稽古をもって錬となす「朝鍛夕錬」(毎日欠かす事なく続けられる厳しい稽古)です。優秀なアスリートが口を揃えていうのは、毎日の厳しいトレーニングを続けることで培われるのは、体力や技能以上に、自分はこれだけ厳しいトレーニングを毎日続けてきたという絶対的自信という精神力だそうです。一般に自信は成功体験の積み重ねによって作られるものです。しかしそれは絶対的自信ではありません。失敗することで崩壊する空虚な自信です。絶対的自信とは、勝ち負けにこだわらず自己を信頼できるゆるぎない自信です。武蔵は十三歳から三十歳まで六十数回の勝負をして一度も負けませんでした。しかし、勝つことだけでは絶対的自信を得られませんでした。その後二十年間の朝鍛夕錬を続け、五十歳の頃、ようやく兵法の道に達した(絶対的自信を得た)と告白しています。また「独行動」の中に「我、事において後悔せず」という一行があります。これも絶対的自信なくして言える言葉ではありません。
武蔵の直感的な気づき
武蔵は十三歳で初めて兵法者に打ち勝ち、三十歳までに六十回以上の勝負をして一度も負けませんでした。兵法者との勝負はあの佐々木小次郎との巌流島の対決が最後です。それは慶長十五年(1610年)関ヶ原と大坂の陣の間のことでした。そこで、これまでの人生を振り返り気づいたのは、これまで六十数回勝負をして一度も負けなかったのは、自分がたまたま才能に恵まれ、天の理にかなっていたか、相手が弱かったからであり、兵法の道を極めたからではないということでした。十三歳から六十数回の勝負をして一度も負けなかった武蔵が、佐々木小次郎を倒し兵法者としてまさに天下の頂点にあった三十歳の時、「自分はいまだ兵法の道を極めていない」と気づいたのです。そして「このままではいつか必ず負ける。負けて命を落とす」と直感しました。バブル経済の絶頂期、毎年最高益を更新し続けていた会社の社長が、その絶頂の最中で「このままでは我社は必ず潰れる」と直感したようなものです。この直感的な気づきがなければその後の武蔵はありませんでした。どこかでだれかと勝負して命を落としていたに違いありません。そうであったら、宮本武蔵という名は歴史に残らなかったでしょうし、当然「五輪書」も存在しませんでした。三十歳での武蔵の気づきが宮本武蔵の名前を偉大な兵法者として歴史に刻みつけたのです。こうした人生の大転換点に気づけるか気づけないかが偉人と凡人の違いかもしれません。
万事において我に師匠なし
「兵法の利にまかせて諸芸諸能の道となせば、万事において我に師匠なし(自分は兵法の道で得たものに従って、絵画・彫刻・書など、もろもろの芸能の道としているのであるから、あらゆることにおいて私に師匠はいない)」
武蔵は、自分が兵法の道でつかんだ道理は、すべての道に通用する道理であるから、諸芸諸能の道においても、師は必要なかったと述べています。武蔵は、兵法以外にも、絵画、彫刻、書、連歌、禅に親しんでいます。特に武蔵の絵画はすばらしく、現存するいくつかは重要文化財に指定されています。絵画であれば、基本的な筆使いを身につけさえすれば、後は兵法の道でつかんだ道理を応用し、独自の画風で自由に描けたのです。ですから武蔵の絵画は、狩野派でもなく等伯派でもない、独自の画風でした。
武蔵は剣術さえ誰からも教わらなかったのでしょうか?武蔵の祖父は当理流剣術と十手術の名手でした。そして、武蔵の父宮本武久(無二斎)は、足利十五代将軍の御前試合で将軍指南役吉岡憲法と立ち合い、これを破って天下無双の称号を許されています。幼い頃、父より剣術の基礎を教わったことは疑いないでしょう。伝わっている話では、武蔵は幼い頃ささいな言い争いが原因で父武久から手裏剣を投げつけられ、心に深い傷を負い九歳で家を出ました。もしこの話が真実なら、「万事において我に師匠なし」という武蔵の言葉には、深い悲しみが込められているのかもしれません。父と別れてからは独力で自分の剣を確立させたのだと思います。父観阿弥から芸と一座を受け継ぎ、父の芸に魅了され、父を尊敬してやまなかった能楽(猿楽)の世阿弥とはまったく対照的です。
「今此書を作るといへども、仏法・儒道の古語をもからず、軍記・軍法の古きことをももちいず、此一流の見たて、実の心を顕す事、天道と観世音を鏡として、十月十日の夜寅の一てんに、筆をとつて書初むるもの也。(今、この書を書くにあたっても、仏教、儒教、道教の古い言葉を使わず、軍記・軍法の故事を用いず、この二天一流の考え、真実の意味を書きあらわす事において、天と観世音菩薩を前にして、十月十日の夜午前四時三十分に、筆を取って書き初めたのである)」
序文のクライマックスにふさわしい見事な文章です。この書を書き始めるにあたり、仏法・儒道の古い言葉や軍記・軍法の故事といった権威に頼らず、自分の経験だけを頼りに自分の言葉で書くというのです。武蔵の並々ならぬ覚悟が感じられます。
武蔵の「兵法の道」
ここで武蔵のいう「兵法の道」とは何かをみておきます。
「夫兵法という事、武家の法なり。将たるものは、とりわき此法をおこない、卒たるものも、この道を知るべき事也。(いったい兵法というものは、武家の法である。将たるものは、とくにこの兵法を行い、士卒たるものも、この兵法の道を知るべきである)」
また、武士と言っても大将と士卒ではその兵法は違ってきます。武蔵は大工の棟梁と大工の関係に例えてそれを説明しています。
「大将は大工の頭領として、天下のかねをわきまえ、其国のかねを糺し、其家のかねを知る事、頭領の道也(大将は大工の頭領として、天下の尺度をわきまえ、国の尺度を正し、自分の家の尺度を知るのが、頭領の道である)」
「士卒たるものは大工にして、手づから其道具をとぎ、色々のせめ道具をこしらえ、・・・・大工のわざ、手にかけて能くしおぼえ、すみがねよくしれば、後は棟梁となる物也。(士卒は大工である。みずから道具をとぎ、いろいろな大工道具を作り、・・・・大工の技を自らの手にかけ仕事をおぼえ、尺度をよくわきまえれば、やがて頭領になることができる)」
世阿弥の「風姿花伝・花修に云はく」に次の文章があります。
「上手の達者ほどは我が能を知らざらんよりは、少し足らぬ為手なりとも、能を知りたらんは、一座建立の棟梁には勝るべきか。(上手な達者であるわりには自分の能を知らない役者よりは、少し技能の足らない役者であっても自分の能を知っている役者の方が、能の一座を背負って立つ棟梁としては適任であろう)」
世阿弥は武蔵より二百年前の人です。すでにこの頃から、猿楽の一座を運営していくにあたって、棟梁(=頭領)にはいかなる能力が必要で、いかなる人物が適格かが考えられていたことがわかります。兵法の道、芸の道、大工の道、いずれの道であれ、それはとても重要なことと認識されていたようです。
道は、武蔵においては専門の打ち込む道であるとともに、まことの道、真実の生き方に通じる道という意味を含んでいる。武蔵は兵法の道をそのような道として確立させようとするのである。(魚住孝至著「宮本武蔵」岩波新書P126)
武士が兵法の道に励むのは、何事においても人に勝つことを根本とする。
それでは、名文電子読本で取り上げた「地の巻」の文章を読んでみます。
「だいたい武士の武士たるゆえんを考えてみるに、武士はいつでも死ぬ覚悟ができているから武士なのであると一般には考えられている。けれども、死ぬ覚悟においては、武士ばかりに限らず、出家(僧侶)であれ、女であれ、百姓以下に至るまで、義理を知り、恥を思い、死を決心することは、そこに変わりはないのである」
豊臣氏が滅亡した大阪夏の陣(1615年)から三十年、島原・天草の乱(1637年)という大きな一揆がありましたが、平和な世の中が続き、合戦の経験がない若い武士の多くが死を観念でとらえ、武士道と死を結びつける風潮がみられたのです。「花は桜木、人は武士」武士の死に際を桜の散り際の潔さにたとえた言葉です。「武士道と云ふは死ぬ事と見つけたり」七十年後に佐賀鍋島藩士山本常朝によって書かれた「葉隠」のこの有名な一節は、この時代すでに美徳として武家社会に広がっていました。
しかし武蔵は「死ぬ覚悟など、武士に限ったことではない」といいます。島原・天草の乱に養子宮本伊織が家老を務める小笠原藩の一員として出陣した武蔵は、死を恐れず勇敢に戦い次々と死んでいった農民の姿に衝撃を受けます。死を恐れず戦う覚悟において、農民も武士も何らかわらない。この事実を悟ったのです。
また、主君の死に殉ずることが武士の美徳とされたのもこの頃です。森鴎外が著した「阿部一族」は殉死をテーマとした短編ですが、寛永二十年(1643年)に実際に細川藩で起きた事件に基づいています。寛永二十年(1643年)は、武蔵が「五輪書」を書き始めた年です。細川藩の客分であった武蔵がこの阿部一族の事件を知らぬはずはありません。武蔵は客分として細川藩にあって、若い藩士の剣術の稽古を指導していました。実戦経験のない彼らが死を観念でとらえ美化し、又殉死が当然の如く美化される風潮に危機感を持っていたのだと思います。
合戦のない平和な時代が続くとともに、剣術の道も抽象化され、敵を倒す剣から心を磨く剣へと変化し始めていました。剣禅一如という言葉が表す様に、剣術の修行と禅の修行の目指すところが同じものであるという風潮に変わり始めていました。こうした風潮に対する武蔵の危機感は尋常ではなかった推察されます。
「今この世の中に、兵法の道を確実にわきまえた武士はいない」という武蔵の言葉にそれがあらわれています。
「武士が兵法の道に励むのは、何事においても人に勝つことを根本として、あるいは一人の敵との斬り合いに勝ち、あるいは数人の敵との戦いに勝ち、主君のため、自分の名をあげ身を立てようと(立身出世しようと)思う事。これが兵法の功徳である」
武蔵は兵法の道として死ぬことを否定しました。武蔵が兵法の道を通して目指したもの、それは唯一「勝つ事」でした。武蔵は「火の巻」を次の言葉で結んでいます。「剣術実の道になりて、敵と戦ひ勝つ事、此法聊か替る事有るべからず。(剣術の正しい道とは、敵と戦って勝つ事である。これはいささかも変わることがあってはならない)」「たとえ全力を出し切っても負ければただの敗者ではないか、ならばいかなる方法を使っても勝って勝者となれ」武蔵の兵法の道に貫徹しているのは、この冷徹な勝利への執着でした。
宮本武蔵の「空」
名文電子読本で取り上げた「空の巻」の文章です。
まず取り上げた文章に先立つ「空の巻」の文章を読んでみます。「空の巻」は以下の文章から始まります。
二刀一流の兵法の道、空の巻として書顕す事(二刀一流の兵法の道を空の巻として書きあらわした)
「空と云ふ心は、物毎のなき所、知れざる事を空と見たつる也。勿論空はなき也。ある所を知りてなき所を知る、是則ち空也(空の意味は、物事がないということ、人が知ることができないことを空というのである。もちろん空は何もないことである。あるという事を知ることで、ないという事を知る、これがすなわち空である)」
あるという事を知ることで、ないという事を知るとは「あるという事」を知り、それを通して初めて知るのが「ないという事」であるということです。つまり「あるという事」を知らなければ「ないという事」を知ることはできないというのです。
「空の巻」に先立つ「五輪書」の「地・水・火・風の四つの巻」は、兵法の道の内容を、項目に分けて詳しく論じています。これらは、ここでいう「あるという事」です。空とは、それらの「あるという事」の兵法の道を実践していくことを通して知られてくる「ないという事」です。
以上魚住孝至著「宮本武蔵」岩波新書 P193参照
「世の中において、あしく見れば、物をわきまへざる所を空と見る所、実の空にはあらず、皆迷う心なり。此兵法の道においても、武士として道を行ふに、士の法を知らざる所、空にはあらずして、色々迷ひありて、せんかたなき所を、空といふなれども、是実の空にはあらざる也(世間では、間違った見方をして、物事を理解できないことを空を見ているが、これは真の空ではない。それは、すべて迷いの心である。この兵法の道においても、武士としての道を行うのに、武士の法を知らないのは、空ではないし、色々迷いがあって、どうしてよいかわからないのを、空というけれども、これも真の空ではない)」
世間では「物事を理解できないこと」「武士の法を知らないこと」「色々迷いがあって、どうしてよいかわからないこと」を「空」とみているが、「空」とはそのような悪い意味での「ない」とは違うと武蔵は言います。
そして続く文章で「実の空」とは何かを述べています。それが電子読本で取り上げた文章です。
「武士は兵法の道を確実に会得し、その他武芸をよく鍛錬し、武士として行う道に明るく、心に迷いがなく、何事も常に怠らず、心意二つの心を磨き、観見二つの目をとぎ、少しもくもりなく、迷いの雲の晴れた所こそ、真実の空であると知るべきである」
「心意二つの心」とは、どのような心なのでしょうか。五輪書に先立って書かれた「兵法三十五箇条」に次の条があります。
「心の持様は、めらず、からず、たくまず、おそれず、直に広くして、意のこころかろく、心のこころおもく、心を水にして、折にふれ、事に応ずる心也。水にへきたんの色あり。一滴もあり、滄海も在り。能々吟味あるべし。(心の持様は、くじけず、焦らず、企まず、おそれず、真っ直ぐに広々と、集中や忍耐といった意のこころは軽く、無為や無念といった心のこころは重く、こころを水にして、その時々の状況に対応する。水は自由に変化する。一滴の時もあり、広々とした大海の時もある。よくよくその時の状況を把握すべし)」
「意のこころ」とは、集中、忍耐といった自分自身の意志の力を用いる心。一方、「心のこころ」とは、無為、無念といった無意識の心。この二つのこころを磨けというのである。
「観見二つの目」とは、どのような目でしょうか。水の巻の文章を引用します。「目の付けようは、大きに広く付くる目也。観見二つの事、観の目つよく、見の目よわく、遠き所を近く見、近き所を遠く見る事、兵法の専也。(目の配り方は、大きく広く目を配れ。目には観の目と見の目の二つがある。観の目をつよく見て、見の目よわく見る。遠くの動きを近くにとらえ、近くの動きを遠くにとらえる。これは兵法において大事なポイントである)」水之巻 兵法の目付といふ事より
「観の目」とは、遠くの動きを近くに(はっきりと)とらえる目、「見の目」とは、近くの動きを遠くに(ぼんやり)とらえる目。もっと具体的に言えば、「観の目」とは敵の心の動きを読む目、「見の目」とは敵の剣先の動きを読む目。
武蔵のいう「空」は、朝鍛夕錬し、正しい兵法の道を確実に会得した後に見えてくる、どこまでも続く雲一つない青い空(そら)のイメージです。乱世を一人で生き抜いてきた男が到達した世界観ともいうべき境地は、このようなものだったのです。
万里一空
宮本武蔵の言葉に「万里一空」があります。武蔵が読んだ和歌に「乾坤を其侭庭に見る時は我は天地の外にこそ住め(天地をあるがままを感じるには、それを外から眺めよ)」があります。この歌の添え書きとして「山水三千世界を万里一空に入れ、満天地とも攬る」という一文があります。(ネットで「万里一空」を検索すると「五輪書」の中にある言葉と解説しているサイトが多いですが、「五輪書」には「万里一空」という言葉は出てきません)
●「万理」=「すべての原理、ことわり」
●「一空」=「ひとつの空(そら)」
●「万理一空」=「すべてのことわりは、ひとつの空(の下)にある」
世界のすべては同じ一つの空(そら)の下にあるという見方を表す表現です。転じて、どこまでも同じ一つの目標を見据え、たゆまず努力を続けるという心構えを表す語として引用されます。武蔵が到達した世界観が「万里一空」であるという見方は正しいものです。
剣禅一如
武蔵と同時代に生きた剣豪に、徳川将軍家剣術指南となった柳生新陰流の柳生宗矩がいます。その剣は、ただ人を斬り殺すための乱世の剣ではなく、剣で世を治め(治国太平の剣)、剣を心の修行(剣禅一如)とする「活人剣」でした。
「人に勝つ道は知らず、我に勝つ道を知りたり(自分の心の中に巣食う臆病や怠惰心を追い払ってこそ、敵に勝つ道が開ける。敵と戦って勝つことを考える前に、自分に勝たなければならない)」これは、柳生宗矩の言葉とされています。
柳生宗矩は、三代将軍家光に信頼され、剣を通じて禅や政治を説き、家光の人間的成長に大きな影響を及ぼしたと言われています。
戦国の世が終わり、合戦のない時代が長く続くと、敵に勝つための剣は無用になってきます。時代の変化に合わせて、剣の道も変化しなければならなかったのです。現在のスポーツとしての剣道だけでなく、柔道、合気道、相撲、弓道など日本の武術に共通する心を磨くという精神、強いものほど求められる礼節と品格、こうした武術の精神的な態度は、柳生宗矩の活人剣がその起源です。日本人の剣術に対するイメージはこうした武術の精神的な態度をベースにしていますので、「五輪書」を同じイメージのものとして読むと大きな違和感が生じます。
柳生宗矩の兵法は「兵法家伝書」にまとめられています。この書は「五輪書」と並び、近世武道書の二大巨峰とされています。
吉川英治の小説では、宮本武蔵に剣の極意を教えたのは沢庵禅師でしたが、これはあくまで吉川の創作で、武蔵と沢庵禅師に交流はありませんでした。沢庵禅師と交流したのは柳生宗矩です。柳生宗矩は沢庵禅師から禅を学びそれを剣術に応用しました。
沢庵禅師には「不動智神妙録」という著作があります。これは柳生宗矩に与えられたもので「剣禅一如」を説いています。
鎌田茂雄著「禅とはなにか」講談社学術文庫から、沢庵禅師の剣の教えについて書かれた箇所をご紹介しておきます。
「柳生宗矩に剣道の極意を教えたのは、沢庵禅師だという。この人は無心の剣法というものを教えた。二人の剣士が向き合う。その時に心はどこにもおいてはいけない。相手の肩にすきがあると思うと、相手の肩に心がしばられる。相手の腕にすきがあると思うと、相手の腕に心がしばられる。相手に勝てると思うと、勝てるというところに心がしばられる。一切心をどこにも置かず、天地一杯に遍満させるのだ。ぼんやりしているのではない。一点に気力を集中して、しかし心はどこにもおかない。これが剣の極意である。剣道をやる人は、最後になると極意というものを、平素の鍛錬から作り出し、つかんでいく」P46
これは、金剛般若経の教え「応無所在 而生其心(応に住する所なくして、しかも其の心を生ずべし)」と通じるところがあります。(風姿花伝・解説サイトを再読願います)
武蔵の兵法の道は、乱世から太平へと変わる時代にあっても頑なに「勝つこと」にこだわり続けました。「五輪書」は勝つことへのこだわりの集大成ともいえる書です。武蔵は最後まで「剣術実の道になりて、敵と戦ひ勝つ事、此法聊か替る事有るべからず。(剣術の正しい道とは、敵と戦って勝つ事である。これはいささかも変わることがあってはならない)」を貫き通しました。
宮本武蔵覚悟の文章
「五輪書」の原文は、わかりやすい平易な言葉で書かれています。古典の中では比較的読みやすい書です。これは武蔵自身が序文の中で述べている「仏法・儒道の古語をもからず、軍記・軍法の古きことをももちいず」が大いに関係していますが、武蔵自身が「我心より見出したる利にして、常に其身になつて、能々工夫すべし。(自分の心より見出した道理として、常にその身になって、よくよく工夫しなさい)」と読み手に注文をつける限り、できるだけ平易でわかりやすい文章にするよう注意を払って書いたものと思います。
「五輪書」は実利主義に徹した書なのだから、現代語訳だけ読めばよいという考えもあるかもしれません。しかし原文からは現代語訳では伝わらない何かが確かに伝わってきます。特に武蔵の言葉は独特です。わかりやすさ中に何か覚悟のようなものが感じられのです。これは武蔵が「五輪書」を死を前にして書き続けたことと無縁ではないと思います。宮本武蔵覚悟の文章をぜひ原文でお読みください。
世阿弥の「風姿花伝」と宮本武蔵の「五輪書」
ここまで、世阿弥の芸の道を伝える「風姿花伝」「花鏡」、利休の茶の湯の道を伝える「南方録」、宮本武蔵の兵法の道を伝える「五輪書」と三人の伝書の中からそれぞれの名文を取り上げご紹介してきました。この三人の道の極め方は、それぞれに違いますが、それはまたそれぞれの生き方と不可分の関係でもあります。三人の生き方に三人の道の極め方が色濃く反映しています。日本人にとってその道を極めるとは、いかに生きるかという生き方の問題でもあったのです。
世阿弥の「風姿花伝」と宮本武蔵の「五輪書」、この二つの伝書をぜひ読み比べてみてください。
父観阿弥から一座とその芸を継承し、父の芸を尊敬してやまなかった世阿弥は、「古きを学び、新しきを賞する中にも、全く風流を邪にする事なかれ(古い芸をまね、新しい芸を工夫するにせよ、決して過去、現在、未来へと流れていく(継承されていく)芸の道を汚してはならない)」という言葉で、先人の残した伝統に立脚した芸の道を正しく子孫に継承することを説きました。風姿花伝は父観阿弥から伝えられた芸の道を子孫に伝えるために書かれた伝書です。
一方宮本武蔵は「万事において、我に師匠なし」という言葉が示す通り、自己のみ、自分だけをたのんで独自の兵法の道を確立しました。ですから五輪書は、すべて武蔵自身の体験に基づいた武蔵自身の言葉で書かれています。そこに先人の教えなど一切存在しません。
ある意味、まったく対照的な世阿弥と武蔵、「風姿花伝」と「五輪書」ですが、私たちはそこから様々なことを学ぶことが可能です。世阿弥は観世一座という組織の頂点に立つ棟梁です。すでに確立された芸の道を学びその道を極めていきました。そして自らが芸の道を極めるだけでなく、組織のトップとして観世一座の繁栄に責任を負っていました。世阿弥は一座の経営が成り立つための芸の道を常に模索していました。一方武蔵は革新的な技術と能力で新しいビジネスを展開した風雲児でしょう。業界の常識や因習にとらわれず、勝つことにこだわり、創意工夫と粘り強い努力で業界の地図を一変させようとしたのです。
参考文献
鎌田茂雄全訳・注「五輪書」講談社学術文庫
鎌田茂雄著「禅とはなにか」講談社学術文庫
魚住孝至著「宮本武蔵」岩波新書
魚住孝至著「100分de名著・宮本武蔵」NHK出版
大倉隆二・訳・校訂「五輪書・現代語訳」草思社
入野信照著「面白いほどよくわかる・五輪書」日本文芸社
奈良本辰也著「五輪書入門」徳間書店
李御寧著「縮み志向の日本人」講談社学術文庫
「五輪書」は、岩波文庫はじめ、文庫本が数多く出版されています。文庫本で読み進めるにしても、もう一冊参考図書を準備して二冊を並行して読み進めることをお勧めします。
並行して読み進める参考図書としてお勧めは、魚住孝至著「宮本武蔵」岩波新書と魚住孝至著「100分de名著・宮本武蔵」NHK出版です。魚住孝至氏は宮本武蔵研究の第一人者です。特に「宮本武蔵」岩波新書は、宮本武蔵の全体像を知った上で、「五輪書」の思想を考察するという構成になっていますので、興味深く読み進めることができます。特に、第四章「五輪書の思想」は、「五輪書」を理解する解説書として最適です。