三十四五 一頁

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若い盛りの花を自分の本当の実力だと思い込む二十四、五歳の頃の初心時代を、稽古に邁進することで自惚れと慢心を捨てて乗り切れば、三十四、五歳頃には役者としての盛りの絶頂に至ります。この頃までに都で名人と認められ名声を得ていれば、その役者は能を極めたといえます。
もし、この頃(三十四、五歳)までに都で名人として認められず名声を得ることもないなら、役者自身がいくら自分の芸に自信を持っていたとしても、その役者は未だ能を極めてはいません。能を極めていないなら、それは四十以降に退歩していきます。
それゆえに、この頃(三十四、五歳)は、初心時代の頃(二十四、五歳)以上に謙虚になって稽古に励めと世阿弥は言います。この頃(三十四、五歳)は、これまで稽古してきた能をしっかりと身につけ、これからの演じ方を自覚する(自分の芸を確立する)時、つまり役者としての大詰めです。ここで手を抜けばこれまで積み上げてきたものがすべて崩れ去ってしまう。その位の危機感を持って稽古に精進せよということです。ここで能を極めなければ、その後都で名人と認められることはありえません。
一人の役者が能を極めているかどうかを決めるのは、芸の師匠ではありません。自分自身や役者仲間でもありません。それは都の人たち(目利きの観客)だと世阿弥は言います。世阿弥は役者が都の人たち(目利きの観客)から能を極めていると認められることを「天下の許され」と表現しました。また「この芸、位を極めて、佳名を残す事、これ天下の許されなり。(この申楽・能は、芸の位・実力を極めて名声を残すこと、これが都で認められるということである。)」(奥義に云はく・P249)とも述べています。世阿弥にとって申楽は、芸の道であると同時に、観世座の長として座員を養い自らの生活を成り立たせる拠り所でもありました。本来、大和申楽は大和の寺社と地方農村の大衆にその芸と生活を支えられていました。そこに今熊野の演能で観阿弥と世阿弥が将軍義満の愛顧を受けてより、新たな保護者として都市の人々、特に都の有力な公家と武家が登場します。彼らは申楽以外の様々な芸術に接し、また幅広い知識を身につけた教養人で、芸の良し悪しにも厳しい目を向ける鑑識眼の高い(目利きの)人たちでした。その都人の人気を得れるかどうかが、役者の運命のみならず座の運命をも左右する時代が到来したのです。「天下の許され」とは、それを意味する言葉でもありました。そして、世阿弥の目は常に都人の好みや動向に向けられていくようになっていたのです。
