序 二頁

PDF177ページ

物学条々の「序」を読んで受ける世阿弥の印象は、私たち現代人には決してよいものではありません。都の貴人に媚び、遠国田舎の大衆を卑下する嫌な奴、世阿弥にそのような目を向けさせる文章です。しかし、これはあくまで現代人の感覚であり、当時の身分制度は出自を基本にした絶対的なものでした。社会は生まれながらの貴人とその他大勢の大衆によって成り立っていたのです。貴人は社会全体の中では少数派ではありますが、政治力・経済力と軍事力で社会を圧倒する力を持つ存在でした。しかも、貴人は和歌や古典文学に親しみ、花鳥風月を愛でる風雅な心得のある教養人・文化人でもありました。
申楽の役者は、もともとは大衆の中の下層に位置する者たちでした。将軍義満がまだ少年であった世阿弥(当時の名は藤若)をともなって祇園会(祇園祭)を見物した時、その様子を公家の三条公忠(後愚昧記の著者)は「カクノ如キ散楽ハ乞食の所行ナリ」と書き記しています。当時の申楽の役者は、卑賎の民として卑しまれていました。しかし十二歳から将軍義満の愛顧を受けた世阿弥は、翌年には当時第一の文化人であった二条良基にその才能を見出されます。二条良基は世阿弥に藤若という優美な名を与え、和歌や連歌など古典の知識を直接授けました。そして、世阿弥(藤若)は、たぐいまれな才能でそれを吸収していったのです。世阿弥は卑賎の出自でありながら多くの貴人と交際し、貴人と変わらぬ、いやそれ以上の教養を身につけていきました。
世阿弥に自分は貴人であるという意識はなかったと思います。しかし、こうして身につけた教養が世阿弥の芸から大衆性を失わせ、その芸を貴人の好むものへと向けさせます。もともと大和申楽の芸風は、様々な物まねを演じ尽くして、その上で優美な芸風であろうとするもの。つまり、大衆性の強い物まねを軸にして、そこに幽玄を付け加えるものでした。しかし世阿弥はその物まねの中から大衆性を取り去り、花鳥風月を愛でる風雅な心得のある人々の好みにあわせようとしたのです。
