序 一頁

「年来稽古条々」「物学条々」「問答条々」三つの本篇の中で、各条に入る前に「序」を置いているのは、物学条々だけです。「女」「老人」・・・といった各物まねを具体的に一つ一つ検討する前に、「物学」を大きく全体的に捉えて論じてみようというのが、この「序」の目的のようです。

「およそ、何事をも残さずよく似せんが本意なり。しかれども、また、事によりて、濃き薄きを知るべし。(大体、物まねとは、すべての事を余す所なくよく似せようとするのが本来の目的である。けれども、また、似せる対象によって、似せる程度に濃い薄いの差があることを知っておくべきである。)」
「何事をも残さずよく似せんが本意なり」「事によりて、濃き薄きを知るべし」この二つの文章から伝わってくるのは、「何事をも残さずよく似せんが本意なり」よりも「事によりて、濃き薄きを知るべし」に重きが置かれているような微妙な感覚です。「確かに物まねの本質とは全てをよく似せることだが、似せる対象の違いにより似せる程度に濃い薄いの差があることを知っておかねばならない。」こんな感じでしょうか。
ではどんな対象にどんな差をつけるべきかといえば、身分の差で言えば、貴人(身分の高い公家と上級武士)の様子や風雅な行いは細かく(濃く)似せて、農夫や野人(粗野な人間)の有様は大雑把に(薄く)似せなさい。仕事で言えば、木樵、草刈、炭焼といった風雅な演技になりそうな仕事の有様は細かく(濃く)似せて、それより卑しい下級の仕事の有様は大雑把に(薄く)似せなさい。細かに(濃く)似せるかどうかは、対象物に風雅な心や優雅な趣、つまり優美さ(幽玄)があるかどうかで決まります。そして、それは世阿弥が目指す能の方向でした。風姿花伝本篇を執筆した三十八歳。役者として盛りの絶頂において、世阿弥の能は幽玄を追求する方向へと大きく舵を切っていたのです。
