物学条々

PDF 25ページ・175ページ
「物学」と書いて「物まね・ものまね」と読ませています。これは「学ぶ」ということの本質が「まねる」ことにあるからです。風姿花伝では「学ぶ」を「まねる」という意味で使っていることに留意してください。
「およそ、この道、和州・江州において風体変れり。江州には、幽玄の境を取り立てて、物まねを次にして、かかりを本とす。和州には、まづ物まねを取り立てて、物数を尽くして、しかも幽玄の風体ならんとなり。(さて、この能の道は、大和申楽と近江申楽では芸風が違っている。近江申楽では、優美な境地を取り上げて、物まねを次にして、風情の優美さを根本としている。大和申楽では、まずは物まねを取り上げ、様々な物まねを演じ尽くして、しかも優美な芸風であろうとするのである。)」「奥義に云はく」PDF 92 PDF 242
「奥義に云はく」では、大和申楽の芸風は、物まねを第一(最重要)とすることが述べられています。様々な物まねを演じ尽くして、その上で優美な芸風であろうとするのが大和申楽の芸風です。大和申楽にとって物まねは、過去、現在、未来へと継承されていく芸道の流れの中でも本流というべきものでした。大和申楽に属する観世座に生まれた世阿弥にとって、風姿花伝を子孫に伝える庭訓の書として残すかぎり、そこに物まねを取り上げるのは至極当然のことでした。
現代人が「モノマネ」と聞けば、有名人の特徴をうまく表現するお笑い芸ですが。世阿弥の時代の物まねは「演技」という意味で使われています。「老人の物まね」と言えば、「老人の演技」という意味であり「老人というものを演技で表現する」ことでした。風姿花伝では「女・老人・直面・物狂・法師・修羅・神・鬼・唐事」の九つの物まねを取り上げ、それぞれの演技の特徴を伝えています。ただし、直面のみは、まねる対象を意味する言葉ではありません。
現代の能は、舞を伴う歌劇であり、舞踏的、音楽的美を追求する仮面劇です。それは広い意味では役者の演技によって成り立つ演劇です。しかし、その主題も構成も極端に単純で、一つの感情のみを盛り上げ、それを手がかりに、造形美、絵画美、音楽美を発揮するのが目的です。ですから台本としての謡曲では、物語の筋はどうあろうと、親子の情、恋愛、嫉妬、復讐、武士かたぎなど、一つの観念なり情緒なりを訴えることに重点がおかれます。よって文学的な一貫性は必ずしも必要なく、かえって複雑な、いわゆる演劇的な葛藤や発展をこばむ方向をとっています。「能。鑑賞のために」丸岡大二・吉越立雄共著より抜粋。
一方、この物学条々の各条を読み進めていると、漠然としてではありますが、世阿弥の時代の能(申楽)の様子が浮かび上がってきます。それは、現在私たちが能と呼んでいるものとはかなり異なった、もっと庶民的で躍動感にあふれたものだったようです。「序」で申楽の起源について「時移り、代隔たりぬれば、その風を学ぶ力、及びがたし(時が流れ、時代も遠く隔たってしまったので、その当初のありさまを知ることは、もはやできない)」と述べられていましたが、それは現代の能にも言えることで、世阿弥の時代と、そこから六百年以上隔たった現代では、能のありさまが大きく異なっていて当然です。
「二曲三体」について
ここで世阿弥が風姿花伝の本篇(年来稽古・物学・問答の各条々)を著してから二十年後の応永二十七年、世阿弥が五十八歳の時に著した能楽論書である「至花道」の中で論じられている「二曲三体」についてふれておこうと思います。
以下、至花道の二曲三体事より一部抜粋してご紹介しています。

この申楽の芸事において稽古するべき条々については、その学べき風体は誠に多いが、習道の入門(稽古の入り口)としては、二曲三体以外の稽古を行ってはならない(二曲三体を専ら稽古せよ)。二曲とは舞と歌(謡)、三体というのは物まねの人体(老体・女体・軍体)である。
この他(二曲三体以外)の風体は、皆この二曲三体から自然に発展してくる用風であるから、それを自然自然に待つべきです。
至花道・二曲三体事の大意(現代語訳)
この申楽の芸事において稽古するべき条々については、その学べき風体は多いが、習道の入門としては、二曲三体を専ら稽古せよ。二曲とは舞と歌(謡)、三体というのは、老体・女体・軍体の三つの物まねの人体である。
稽古にあたっては、まず音曲と舞を師匠より十分に習い極めて、十歳頃から童形の間は、三体の物まねも習ってはいけない。ただ児姿のまま、諸体の風曲を演じるべきであり、これは、面も着けず、どんな物まねを演じるにも、実際の姿は童形にふさわしい服装であるべきだ。このようにすることで、後々までの芸体に幽玄風を保持していくことができる風根を養うことになる。
元服して大人の姿になって後は、面を着け、その姿も種々に扮装して演じ、従ってその物まねは多種多様にわたるべきであるが、そこにおいてもなお、真の上果の芸風にまで到達するためには、ただ三体(老体・女体・軍体)の物まねのみに限定しなければならない。三体の物まねを十分に学び、習い極めて、その後に、以前に習い覚えた舞歌の二曲を、その物まねの品々に巧みに配合して演じるのである。
この他(二曲三体以外)の風体は、皆この二曲三体から自然に発展してくる用風(本風である二曲三体を極める事で自然に発生する応用的な風体)であるから、それを自然に待つべきである。たとえば、神舞の閑雅円満(上品で穏やか)な風体は、老体の用風から生まれ出るものであり、幽玄な節や趣は、女体の用風から生まれ出るものであり、身動足踏の生曲(砕道風的な勢いのある曲)は、軍体の用風から生じるものであり、その意中の景(演者の心の中にある所の演出意匠)は、自然とその外面に風趣として現れ出るだろう。
もし、それでもなお、芸力が不足し、この用風が生じ出なくとも、二曲三体さえ極めているならば、上果の芸位に達した役者であるといえるだろう。よって、この二曲三体を、定位本風地体と名付ける。
さて、今の申楽の稽古を見ると、二曲三体の本道より入らず、あらゆる物まねや異相の風(本道から外れた風体)ばかりを稽古するので、いわゆる無主の風体(芸を真似るだけで、自分のものとして体得しきっていない状態)となり、能は弱く見劣りがして、名人といわれる者は皆無である。重ねていうが、二曲三体の本道より入らず、枝葉末節(本質からはずれた重要でない事柄や、どうでもよいこと)的な物まねばかりに励むこと、これは無体枝葉の(本質から外れたおろかな)稽古である。
世阿弥が三十八歳の時、風姿花伝の本篇として書き残した「年来稽古条々」と「物学条々」は、それから二十年後に「二曲三体」に集約されます。もともと「年来稽古条々」と「物学条々」は、父観阿弥から伝えられた教えと世阿弥自身の経験を基に書き記した篇でしたが、世阿弥は自分が芸を極める過程で、この二つを土台にして、それを集約し融合させることの必要性に気づいたのだと思います。白州正子は「二曲三体」について「二曲とは舞と歌、三体は、老体、女体、軍隊、以上三つの物まねの基本形で、一口に言えば、歌と舞が渾然と溶け合い、三体の上に移された後、さらに二曲と三体が融合することで理想的な形が出来上がる」と述べています。(講談社文芸文庫・白州正子著・世阿弥・P92)
「今の稽古は無駄が多すぎる」世阿弥はこう考えていたようです。稽古の改革ともいえる試みでした。「序」に「古きを学び、新しきを賞する中にも全く風流を邪にする事なかれ(古い芸をまね、新しい芸を工夫するにせよ、決して過去、現在、未来へと継承されていく芸道の流れを汚してはならない)」という言葉がありましたが、世阿弥にとって伝統とは過去から現在に伝わることだけでなく、未来へと継承されることも含んでいました。ですから、過去から伝わった古い稽古をまねるだけでなく、新しい稽古を工夫し、それを未来に継承することは、伝統を守ることに他なりません。二曲三体は、「年来稽古条々」と「物学条々」を土台にして生まれました。世阿弥にとってそれは、芸道の流れを汚さないためにも必要だったのです。
