打麻を麻續王白水郎なれや〈卷一・二三〉麻續王を哀れみ傷みて人の作れる歌 うつせみの命を惜しみ〈卷一・二四〉麻續王の返歌

流刑となった伊良虞島で、打ち寄せる浪に全身を濡らしながら藻を刈り取っておられる麻續王の姿を土地の人が「漁夫でもない麻續王が伊良虞島の藻を刈っておられる、なんと哀れで痛ましいお姿であろう」と歌に詠みました。

それを聞いた麻續王が歌を返します。「身分も、財産も、家族さえも失い、せみの脱け殻の如きからっぽの命なのに、たとえそんな空しい命であっても、私はこの命が惜しいのです。だから冷たい浪に濡れながら伊良虞の島の藻を刈って、それを食べて生き延びるのです」

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神島(伊良虞島と考えられています)・Wikipedia

歌を深く味わってみます。

麻續王がどのような人物であったかの記録は残っていませんが、皇族の人であったことは名前から明らかです。日本書紀には「天武天皇の四年四月、麻続王に罪が有り因幡の国に流された。子の一人は伊豆嶋へもう一人は血鹿嶋へ流された」との記述があります。伊勢国伊良虞島に流されたという万葉集の記述とは矛盾しますが、罪を得て流刑に処せられた皇族の一人であることは間違いないようです。

流刑となった伊良虞島で、打ち寄せる浪に全身を濡らしながら藻を刈り取っておられる麻續王の姿を土地の人が「漁夫でもない麻續王が伊良虞島の藻を刈っておられる、なんと哀れで痛ましいお姿であろう」と歌に詠みました。

それを聞いた麻續王が歌を返します。「身分も、財産も、家族さえも失い、せみの脱け殻の如きからっぽの命なのに、たとえそんな空しい命であっても、私はこの命が惜しいのです。だから冷たい浪に濡れながら伊良虞の島の藻を刈って、それを食べて生き延びるのです」

麻續王の歌からは、命(生)への執着を通り越した命の尊厳のようなものが伝わってきます。「どんな状況に陥ろうとも決して生きることをあきらめるな。一つの命としてこの世に生を受けた限り、たとえどん底に落ちても、限りなく命を惜しみ自らの生を全うせよ」

日本書紀によると麻續王が流刑に処せられたのは天武天皇の四年とされていますので、麻續王の罪は壬申の乱に関係していたのかもしれません。日本を二分したこの大乱で、麻續王は戦うことを拒否し、命を惜しんで子とともに逃亡したのではないでしょうか。乱が収まった後、その臆病な行動が罪とされ、親と子がそれぞれ流刑に処せられたのです。

「たとえ臆病者と罵(ののし)られ、卑怯者と蔑(さげす)まれようとも、ただひたすら命を惜しめ。そしてさらに命を惜しみ、それでもまだ命を惜しめ。命を惜しみ尽くした先に見えてくる小さな灯火、それが命の尊厳だ」。

「うつせみの命を惜しみ」という言葉には、命の尊厳が言霊となって宿っています。

釈迦は生まれてすぐ七歩歩いて右手で天を左手で地を指して「天上天下唯我独尊」と言ったと伝えられています。これは「全世界で私が最も尊い」と宣言した言葉に聞こえます。しかし「天上天下唯我独尊」は「今生まれ落ちたばかりで何の寄る辺のないこの一つの命こそが大宇宙の中で最も尊いのだ」という意味です。

人は生きていく過程で欲望と執着を身につけていきます。富に対する欲望を膨らませ、地位、肩書きに執着します。そして人間の尊さは、富や地位、肩書きによって決まるのだと錯覚してしまうのです。しかし、そんなものを取っ払ってしまった何の寄る辺もない裸の自分、つまり「うつせみの命」こそが本当に尊いのです。ですから、その「うつせみの命」を惜しみ尽くすことで命の尊厳は守られていきます。

誕生仏 東大寺