あかねさす紫野行き標野生き〈卷一・二〇〉額田王 紫草のにほへる妹を憎くあらば〈卷一・二一〉大海人皇子
天智天皇七年(六六八年)五月五日に近江の国蒲生野で薬猟(=遊猟)が行われました。その時に既に天智天皇の妻となっていた額田王と元夫の大海人皇子の間で交わされた相聞歌(親しい間柄で贈答された歌。特に男女の間で交わされた恋の歌が多い)です。
この解説サイトは電子書籍にリンクが貼られていますが、電子書籍をダウンロードせずに読まれる方(主にスマートフォンで読まれる方)のために、電子書籍の表紙とページの画像、語句解説、朗読音声などが含まれています。
パソコン(Windows・Macintosh)又はiPadで読まれる方は、電子書籍をダウンロードしてお読みください。ダウンロードサイトは右サイドバーに表示されたURLをクリック又はタップすると起動します。
下のページ画像をクリック又はタップすると朗読音声が流れます。
下のページ画像で現代語訳を確認してください。
<語句解説> をクリック又はタップすると、
本文中の重要語句について解説したページが開きます。
下のページ画像をクリック又はタップすると朗読音声が流れます。
下のページ画像で現代語訳を確認してください。
<語句解説> をクリック又はタップすると、
本文中の重要語句について解説したページが開きます。
歌を深く味わってみます。
天智天皇七年(六六八年)五月五日に近江の国蒲生野で薬猟(=遊猟)が行われました。その時に既に天智天皇の妻となっていた額田王と元夫の大海人皇子の間で交わされた相聞歌(親しい間柄で贈答された歌。特に男女の間で交わされた恋の歌が多い)です。
「紫草のある野と立ち入ってはならない御料地の野を行ったり来たりして、あなたはしきりに私に袖を振っていらっしゃる。そんなことをして野の番人に見とがめられたらどうするおつもりです」
額田王は、今は人妻である元妻に必死のアピールで自分の存在を知らせようとする大海人皇子に、「そんな派手なアピールを人に見られたら、二人が密会していると誤解されるではありませんか。あなたもご自分の立場をよくわきまえてください」こんな思いを歌にして返したのです。この歌からは、二人が決して望んで別れた訳ではないことがうかがえます。同時に大海人皇子の子供じみた行動に対して、「やれやれいつまでたっても子供ですね」という姉さん感情もこの歌からは読み取れます。
「紫色の高貴であでやかなあなたを、憎く思うのであれば、人妻となったあなたなのに、私はどうしてあなたに恋せずにおられましょうか」
自分を子供扱いする額田王の歌に大海人皇子は、「紫のイメージが匂い立つ高貴であでやかなあなたを、私の元を去り天皇の妻となったことを憎く思うのなら、もはや人妻であるあなたなのに、私はどうしてこんなにもあなたに恋せずにおれないのでしょう。私はまだあなたに恋しています」と今も額田王を慕い続けている自分の正直な感情を吐露しています。つまり「もはや人妻となったあなたですが、あなたも私を慕い続けてください」という思いを伝えているのです。
後に天武天皇となる大海人皇子は、物事にこだわらない大らかで明るい性格だったようです。それだけに人望があり、広い情報のネットワークを持っていました。そして決断力に富み、行動力も人一倍でした。大海人皇子は、兄の天智天皇とは真逆の現実主義者でした。
時の最高権力者天智天皇が強引に弟の妻である額田王を自分の妻に望んだわけです。それに対して、額田王と大海人皇子の二人が天智天皇に対してどのような感情を持ったかはわかりません。しかし大海人皇子の合意のもと、額田王は天智天皇の妻になったようです。そこには男女の恋愛感情だけでは説明できない人間関係と政治が複雑に入り交じった当時の皇室の状況がありました。
天智天皇が近江大津宮で即位すると弟である大海人皇子が皇太子となります。天智天皇は、はじめ大海人皇子を政治で重用しました。しかし実子の大友皇子が成長すると、大友皇子を太政大臣に任命して政治を任せます。大海人皇子は次第に政治から遠ざけられるようになります。天智天皇は蘇我入鹿を宮中で誅殺し大化の改新を断行した希代の政略家ですが、政敵とみなせばたとえ身内であっても迷う事なく謀殺する冷酷さを持っていました。実子の大友皇子への愛情が強まるにつれ、皇太子大海人皇子の存在が邪魔になってきたとしても不思議ではありません。大海人皇子は強い危機感を持ち始めていました。そんな時に天智天皇が額田王を自分の妻に望みます。大海人皇子は、額田王が天智天皇の側近くに仕え天皇から寵愛を受ければ、自分の身に危険が迫った時、すぐにその情報を額田王から得ることができると考えました。天智天皇は崩御の直前に大海人皇子を呼んで後事を託しました。この時に使者の蘇我安麿が大海人皇子に危険を警告し、それに従って大海人皇子は皇太子を辞して吉野へ隠遁します。蘇我安麿に大海人皇子へ危険を警告するように指示したのは額田王で、吉野へ隠遁することを勧めたのも彼女だったと考えてもおかしくはありません。大海人皇子は、状況を正確に分析して生き残るための作戦を立て、それを即座に実行しました。
これを契機に、天智天皇の死後、近江朝(大友皇子)と吉野方(大海人皇子)で日本を二分して争う壬申の乱が勃発します。大友皇子の妃は、額田王と大海人皇子の間に生まれた娘十市皇女でした。額田王にとっては、自分の娘の夫である人と最愛の人でかつ娘の父でもある人との争いです。どちらが勝ってどちらが負けても大きな悲しみの残る争いでした。
そして壬申の乱は、ここでも正確な状況分析により作戦を立案した大海人皇子の大勝利で終わります。大海人皇子の現実主義が天智天皇の神秘主義に勝利したのです。
壬申の乱の後、額田王は再び大海人皇子の元へ帰ります。しかしこの時大海人皇子には皇后となる讃良皇女(天智天皇の娘で後の持統天皇)という強力なパートナーがおり、額田王が二人の間に割って入ることはもはや不可能でした。
以上は、この二つの歌から膨らんだイメージを元に創作した歴史解釈です。実は、額田王と天智天皇、天武天皇(大海人皇子)の三角関係が事実であったかどうかはわかっていません。万葉集のこの二歌以外に具体的にそれに触れた記述がないのです。この二歌は宮中での酒宴で遊びに(ふざけて)読んだ歌であるという説もあります。しかしその三角関係が事実として長く語られてきたのは、それだけこの二歌が読む人の心をうち、様々な想像をかき立ててきたからです。すぐれた歌は人の心に歴史ロマンを駆り立てます。