冬ごもり春さり来れば〈巻一・一六〉額田王

天智天皇が、春山の咲き乱れる花々の艶やかな美しさと秋山の紅葉して色づいた葉の彩りの美しさのどちらがすぐれているかを藤原鎌足に命じてその優劣を競わせた時、額田王が歌で以てその優劣を判定しました。

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語句解説

歌を深く味わってみます。

天智天皇が、春山の咲き乱れる花々の艶やかな美しさと秋山の紅葉して色づいた葉の彩りの美しさのどちらがすぐれているかを藤原鎌足に命じてその優劣を競わせた時、額田王が歌で以てその優劣を判定しました。

「冬が終わり春がやって来ると、冬の間鳴かなかった鳥も来て鳴き、冬の間咲かなかった花も咲きますが、山は木の枝や葉が茂り入って花を取ることもできません。草丈が高くなって花を手に取って見ることもできません。」

<対句表現>
●鳴かざりし 鳥も来鳴きぬ   
●咲かざりし 花も咲けれど

●山茂み 入りても取らず
●草深み 取りても見ず

「秋山の木の葉を見ては、地上に落ちた色づいた葉を手に取ってしみじみと賞美できます。まだ色づいていない葉はそっとそのまま置いて早く色づかないかなと嘆息します。そこは残念ですが、私は秋山がすぐれているとします。」

<対句表現>
●黄葉をば 取りてぞ偲ぶ
●青木をば 置きてぞ嘆く

春山と秋山の優劣を感性のままに歌い上げていますが、それを対句で表現する当たりに額田王の教養と知性が感じられます。

天智天皇が内大臣藤原鎌足に詔して(命じて)春山と秋山の優劣を競わせたとなっています。これは当時の文芸的な遊びでしたが、この詔(命令)には何か遊び以外の特別の意味が隠されていたのかもしれません。大海人皇子の妻であった額田王が大海人皇子のもとを去り、天智天皇の妻になったことはよく知られていますが、この詔の本当の意味は、天智天皇が藤原鎌足を介して額田王に自分の妻となる決断を迫った詔だったのではないでしょうか。

大海人皇子を春山、天智天皇を秋山にたとえ、「お前はどちらを選ぶのか」と決断を迫ってくる天智天皇に対して、額田王が、春山にたとえられた大海人皇子の若さと行動力に未だ魅力を感じながらも、大海人皇子に政治の実権のないことを嘆き、秋山にたとえられた最高権力者である天智天皇に仕えて女ながらも政治に参画してみたいという野心を表明した歌と見ることもできます。

もしそうだとすると、この歌は天智天皇の詔を受けた藤原鎌足と額田王との間で交わされた歌であり、天智天皇が直接この歌に接することはなかったのだろうと思います。

天智天皇(中大兄皇子)は、若くして乙巳の変(いつしのへん)で蘇我入鹿を倒し、その後大化の改新を断行しました。強力なリーダーシップで天皇中心の国家体制を築いた改革者とイメージされています。しかし天智天皇にはもう一つの違う顔がありました。それは祈祷や占いに強い関心を寄せる神秘主義者の顔です。

乙巳の変の後、皇極天皇(中大兄皇子の母)はすぐに退位し、軽皇子(皇極天皇の弟)が孝徳天皇として即位します。本来であれば、ここは中大兄皇子が即位して当然でした。孝徳天皇が崩御した後は、中大兄皇子は皇太子であったにもかかわらず即位せず、前の皇極天皇が斉明天皇として再び即位します。そして斉明天皇が崩御した後もすぐには即位せず、皇太子のまま七年に渡り政務を取り続けます。また中大兄皇子は、神武天皇以来大和とその周辺に置かれていた都を遠く近江大津へ遷都しました。遷都した後ようやく即位します。こうした天智天皇(中大兄皇子)の行動は、常識では理解しがたく、そこに占いによる判断があったことが想像されます。

天智天皇は決断に迷った時、占いに答えを求めることがしばしばでした。蘇我氏を倒した乙巳の変でも占いにその決行の是非を問い、祈祷によりその成功を祈願しました。そして乙巳の変の成功は、天智天皇の神秘的なものへの関心をより強めていきました。中臣鎌足(藤原鎌足)は乙巳の変以来の天智天皇の盟友ですが、中臣氏は代々朝廷の祭祀を司る神祇官を務めてきた一族です。天智天皇の祈祷や占いへの強い関心が二人を結びつけたと考えても不思議ではありません。一方額田王は、祈祷、占い、言挙げをよくする巫女で、その能力はずば抜けていました。そこで天智天皇は彼女のその能力を政治に利用したいと考え自分の妻となるよう求めたのです。

以上は創造の歴史解釈であり、史実とされている歴史解釈ではありません。ご承知置き下さい。

鎌倉幕府を倒し建武の新政を断行した後醍醐天皇も武家中心の政治から天皇中心の国家体制へ戻すことを目指しました。その理想は天智天皇と同じです。そして後醍醐天皇も神秘的なものへの関心が極めて強い天皇でした。後醍醐天皇の場合、それは真言密教であり、その中で最も神秘的な要素を持つ真言立川流と呼ばれる密教の宗派でした。後醍醐天皇は、真言立川流を大成した文観を護持僧としてその奥義を学び、政治にもそれを利用しました。密教法具を手に持った後醍醐天皇の肖像画(下の画像)は有名で日本史の教科書で見た記憶のある方は多いと思います。

後醍醐天皇御像・Wikipedia

神秘主義は時に人を大胆な行動へ走らせます。二人の天皇の改革者としての軌跡を辿るとき、神秘主義が二人の天皇を国家の改革へと導いたように思えてなりません。