左遷せられて藍関に至り姪孫湘に示す・韓愈

李白、杜甫、中国を代表する二人の詩人が活躍した盛唐の時代が終わり、次の中唐の時代に新しい世代として登場したのが、韓愈、柳宗元、白居易(白楽天)といった文人官僚達でした。彼らは科挙という官僚登用試験に合格して採用されたエリート官僚であるとともに、詩作に秀で文章をよくする文人でもありました。

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文人官僚韓愈の文体改革(儒教への回帰)

韓愈(かんゆ・768年〜824年)は、中唐を代表する文人官僚・政治家です。下級官僚の家に生まれた韓愈は、幼くして父を失い苦労して勉学に励み二十四歳で科挙に合格します。文人としての韓愈は、同時代の柳宗元(りゅうそうげん・773年〜819年)とともに文体改革を推進し、当時主流であった駢文(べんぶん)と呼ばれる技巧をこらした文体から脱し、形式に縛られず自由に思う所を表出できる文体である「古文」を創出しました。二人が活躍した八世紀後半は、安禄山の乱によって、それまで国の支配階級であった貴族が没落し、科挙出身の新興官僚が台頭しはじめた時期です。二人はともに文人でありながら科挙出身の新興官僚です。特に韓愈の文体改革は、それを通して儒教精神を復活させることを目指すものでした。唐の時代は仏教や道教が支配者層に広まり、政治がその影響を受けることが少なくありませんでした。熱烈な儒教の信奉者であった韓愈は、文体改革を通じて、為政者が中国古来の伝統的な政治思想である儒教へ回帰することを強く主張したのです。

科挙合格後の韓愈は、高級官僚としてエリートの道を進んでいました。当時唐は仏教の全盛時代です。最澄と空海が唐へ留学したのもちょうどこの頃でした。時の皇帝憲宗は仏教を厚く信仰し、中国古来の政治思想である儒教は軽んじられていました。それでも韓愈は儒教による国の統治こそ王道であるとする立場を崩しません。そんな中、皇帝憲宗は、巨額の予算を使い、多くの人民を使役して、都長安に巨大な仏舎利塔(仏の骨を収める塔)の建設を計画します。それに対して韓愈は「論仏骨表」を奉り皇帝を諌めました。しかし、それが皇帝の逆鱗にふれ、辺境の地潮州(広東省)に左遷させられます。その時の心境を記したのが、この七言律詩(七言八句の五十六字から成り、対句、押韻といったルールが定められた定型詩)です。

広東省
潮州市

国を治めるの三つの要諦

論語・学而第一5章に「子曰く、千乗の国を道びくには、事を敬して信、用を節して人を愛し、民を使うに時を以てせよ」とあります。「千乗の国」とは、当時各地に乱立していた諸侯の国を指します。「道びく」は「道むる」(おさむる)とも読み、治める(統治する)ことです。国を治めるには、次の三つのことが大切である。

●国の行う事業は、それを大切に扱って人民の信頼を得ること。

●国が無駄な出費を控えて人民の税負担を軽くし、人民を愛しめ。

●人民を使役するなら、人民にとって都合のよい時期にせよ。(農繁期であってはならない。)

この三つは儒教における国を治める要諦(最も大切なポイント、肝心要)です。儒教を国を治める根本に掲げる韓愈の目には、皇帝の仏舎利塔建設は、国を治めるの三つの要諦に逆行するものに映ったのです。

また論語・憲問第十四23章では、孔子に弟子の子路が主君に仕える上での心構えを聞いたところ、孔子は「欺くこと勿かれ(なかれ)。而してこれを犯せ(おかせ)」と答えています。「犯す」とは「相手の怒りを恐れず自らが正しいと信じるところを諫言すること」です。ですから最初の「欺く」とは主君に迎合する(自分の考えを曲げてでも、他人の気に入るように調子を合わせること)をいいます。つまり「主君に迎合してはならない、そして主君の怒りを恐れず自らが正しいと信ずるところを諫言せよ」これが、臣下が主君に仕える上で大切な要点だと儒教は教えるのです。この儒教の精神が皇帝を直接諌めるという大胆な行動へと韓愈を駆り立てました。信念を捨てて権力へ迎合することを韓愈はよしとしませんでした。

「志を託し託される」儒教の精神に裏打ちされた美学

「聖明のために弊事を除かんと欲す」「肯て衰朽を将て残年を惜しまんや」の二句は、「義」を貫く為には命も惜しまないという韓愈の覚悟を表わします。都のはずれ藍田関(らんでんかん)は、旅立つ人と見送る人が別れを惜しむ最後の場所です。日頃親しくする友人は、皇帝の目を恐れ誰一人見送りに来ません。ただ兄の孫である韓湘だけが変事を耳にして駆けつけてくれました。韓愈の皇帝への諫言という恐れを知らぬ大胆な行動、左遷されても変わらぬ強い信念とその硬骨漢、若い湘にはそれらが男の生き方の美学と映ったのです。韓愈がそれをうれしく思わないはずがありません。「お前がこうして私に会いに来てくれたのは、何か心に決することがあってのことだろう。私はお前のその決心に期待する。私が毒気に当たり(マラリアで)亡くなった後、お前が私の志を拾い上げ、それを引き継いでくれ」。「吾が骨」とは「韓愈の志」であり、それを「収めよ」とは、「志を引き継いでくれ」という意味に解釈します。ここには「志を託し託される」という儒教の精神に裏打ちされた美学があります。

潮州の地で死ぬことを覚悟していた韓愈でしたが、左遷から数年、韓愈はこの逆境を乗り越え中央政府に奇跡の復活を果たします。そしてその後、国政の重要ポストを次々と歴任し、死後には大臣の称号が贈られました。「志」韓愈が厚く信奉するこの儒教の精神が逆境の中で彼を支え続けたのです。

参考文献
興膳宏著 中国名文選 岩波新書