春夜桃李の園に宴するの序・李白

この李白の文章の書き出しを、松尾芭蕉は「おくの細道」の書き出しに、井原西鶴は「日本永代蔵」の書き出しに、それぞれ引用しました。芭蕉、西鶴という江戸元禄期の文芸を代表する両巨頭が、それぞれの代表作の冒頭に引用せずにはおけなかった名文です。

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<語句解説>

李白と大伴旅人

李白は、盛唐の詩人というより、同時代を生きた杜甫とともに中国を代表する詩人であり、日本でも長くその詩が愛唱されてきました。李白は多くの詩を残しましたが、文章となると数が少なく、取り上げられることはまれです。ただ、この「春夜桃李の園に宴するの序」は別格で、名文として長く読み継がれてきました。

「おくの細道」でご紹介しましたが、この李白の文章の書き出しを、松尾芭蕉は「おくの細道」の書き出しに、井原西鶴は「日本永代蔵」の書き出しに、それぞれ引用しました。芭蕉、西鶴という江戸元禄期の文芸を代表する両巨頭が、それぞれの代表作の冒頭に引用せずにはおけなかった名文です。

中国では、初唐の頃から、皆で集まり酒を飲みながら即興の詩を作りあう宴がしばしば催されました。そうした詩宴では、参加者が作る詩に、宴の主催者又は宴を代表する人物が序を書く慣しがありました。この文章は、春の夜、桃李の園で催された詩宴で、宴の代表者として李白が作った序です。

2019年4月に新元号「令和」が発表された時、その出典として話題になったのが、万葉集 巻五「梅花の歌三十二首併せて序」です。これは、天平二年(730年)正月十三日、太宰師(太宰府の長官)であった大伴旅人が主催した梅の花を鑑賞しながら和歌を詠む「梅花の宴」で旅人が詠んだ序です。当時、中国に習い日本でも詩宴がさかんに行われていました。

「梅花の歌三十二首併せて序」は、当社が無料で提供しています電子書籍 万葉集に収録されています。ぜひダウンロードしてお読みください。これも素晴らしい名文です。

検索サイトで「電子書籍 万葉集」と検索してください。ダウンロードは無料です。

李白(701年〜762年)と大伴旅人(665年〜731年)は、中国と日本でほぼ同時代を生きました。二人に共通するのは酒です。李白は飲んでは詩をつくり、旅人も飲んでは和歌を詠みました。もし二人が出会うことがあったなら、すぐに意気投合して酒を酌み交わし、李白は詩を作り、旅人は和歌を詠んだことでしょう。

李白のこの文章からも酒の匂いが漂って来ます。酒を飲んでほろ酔い気分で作った文章ですが、飲んで酔えばこそ作り得た名文です。

宇宙は広大無辺の宿であり、時間は永遠に旅する旅人である。人間の一生なんて、はかない一瞬の夢にすぎないではないか。酒を飲んで楽しむ時間がどれほどあるというのだ。さあ、寝る間を惜しんで飲みあかそう。「人生は楽しめるうちに楽しみ尽くすべし。」これが李白の人生観でした。

李白は701年に生まれました。出生地はよくわかっていませんが、おそらく西域だろうといわれています。とすると、李白は純粋な漢民族ではなかったのかもしれません。四歳か五歳の頃、蜀の綿州彰明県へ移住し、二十代半ばまでそこで育ちました。李白の父は中国と西域の間を行き来する商人でした。家庭はかなり裕福だったようです。李白は二十代半ばで蜀を離れます。それは都に出て官途につき出世したいという志を秘めての旅立ちでした。当時は、詩人として歴史に名を残すことなど微塵も考えていませんでした。そして十数年各地を放浪した後、都長安に入ります。つてを頼って玄宗皇帝に拝謁し、形ばかりの官職を得ますが、二年で都を追われます。人に遠慮しない性格が災いしたようです。再び各地を放浪し六十一歳で亡くなりました。蜀を出て三十数年、再び故郷の土を踏むことはありませんでした。李白もまた漂泊の人生でした。

漢籍と江戸時代の教養

電子読本でご紹介した李白の文章は、漢文を訓読した訓読文(書き下し文・読み下し文)です。もちろん李白が書いた原文は、漢字のみで書かれた中国語の漢文です。私たちの祖先は、訓読という方法で中国の文章(漢文)を読み下してきました。訓読とは、漢文を日本語の文法に従って、語の順序を変えたりしながら直訳的に読むことです。日本人は中学・高校の授業で漢文の訓読を教わります。ですから、訓読文は馴染みのある文章だと思います。

日本人は古来より積極的に中国の古典を輸入し、それを訓読してきました。最も漢文が読まれたのは江戸時代です。それは徳川幕府が儒教倫理を規範に国を治めたことに起因します。儒学の四書五経を学ぶことは、支配階級である武士に課せられた必須の課題でした。そうした漢学の素養は、武士だけでなく貨幣経済の発達で力をつけた町人にも広がっていきます。やがて漢詩や中国の様々な古典を読むことが日本人の教養として定着していきました。江戸時代、一流の遊女の条件は、教養、つまり中国の古典の知識を持っていることでした。

では、江戸時代に日本人が好んで読んだ中国の古典とは、具体的にはどのような古典だったのでしょうか?代表的なものを挙げると、まず、論語は万民の書でした。史記、十八史略、戦国策などの歴史書。唐詩選(明の李攀竜が編纂した唐代の漢詩選集)など漢詩集。唐宋八大家(唐の韓愈、柳宗元、宋の欧陽脩、蘇洵、蘇軾、蘇轍、曾鞏、王安石)の文章。そして老子・荘子が好んで読まれたようです。

まず、私たちが注目しなければならないのは、江戸時代に読まれていたそれら中国の古典です。江戸時代の先人達の視点でそれら中国の古典の中の名文を読んでみることにしましょう。

参考文献
興膳宏著 中国名文選 岩波新書
高島俊男著 李白と杜甫 講談社学術文庫