● 読書の価値
「二十年前、東京の電車ではみな本を読んでいた。誇らしい光景でした。今はみなゲームをしています。簡単にはおもしろさがわからないものにこそ、本当は価値があるのです。」コロンビア大学名誉教授・日本文学研究者 ドナルド・キーン
「簡単にはおもしろさがわからないものにこそ、本当は価値がある」キーン先生は、簡単におもしろさがわかるものには価値がないといっているわけではありません。読書において、はじめは何のことかさっぱりわからなかった文章が、言葉の意味を調べ、何度も繰り返し読みながら意味をさぐっていくと、霧が晴れていくように徐々に作者の言わんとすることが見えてくる。その過程に読書のおもしろさがあることを伝えたかったのだと思います。また、その作品の書かれた時代背景を知り、作者の人生を知ることは、その作品全体の姿を読者の内側に浮かび上がらせくれます。わからなかったものがわかるおもしろさ。読書の価値はそこにあります。
● 古典の継承。
日本人が古くから読み継いできた名著・名作。それがここでいう古典です。ですから、それは日本人によって日本語で書かれた名著・名作に限定されません。
私たちは、先人たちによって読み継がれてきた古典の中に、日本を、日本人を、そして時として自分を発見することがあります。論語の中に、万葉集の中に、枕草子、徒然草、奥の細道の中に、日本が、日本人が、そして自分が存在しています。ですから古典を読み、古典を次の時代につなぐとは、日本を、日本人を、自分を次の世代につなぐことなのです。
● 新しい読書の形。
有志が時と場所を決めて集まり一冊の古典を読み進める形式の読書会は、少なくなったとはいえ今でも行われているようです。しかし今の読書会と言えば、Zoomなどを使ったオンライン読書会が主流です。発起人が全国から参加者を集いオンラインで討論しながら進める読書はインターネット時代の新しい読書の形式であることは間違いありません。
この電子古典読書会も、こうした読書会の読書の進め方を踏襲しつつ、より新しい読書の形を模索していこうと考えています。ですから今の時点でこれが電子古典読書会の読書の進め方ですと明確に言えません。まずスタートさせて進みながら形を整えていこうと考えていきます。
日本の伝統芸能である能を大成した世阿弥は、観世家を継ぐ子孫に向けて下の言葉を伝えました。
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六百年を隔てた世阿弥が子孫に伝えた言葉は、二十一世紀を生きる私たち日本人に次のように伝えているのではないでしょうか。
日本という国に日本人を父母として生まれたから日本人なのではない。先人たちが伝えた日本の文化と伝統を学び、それを継承してこその日本人である。