そもそも、風姿花伝の条々 一頁

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奥義編の著述時期

風姿花伝の全七編(序を除く)のうち、「風姿花伝第一・年来稽古条々」「風姿花伝第二・物学条々」「風姿花伝第三・問答条々」の三つの編は応永七年(1400年・世阿弥三十八歳)に書かれましたが、全編が完成したのは、応永二十年代(世阿弥五十歳代)と考えられています。

風姿花伝は、およそ二十年に渡り増補・改訂されながら成立した書です。「奥義に云はく」の奥書には応永九年三月二日の日付が付されていますが、これは観世本のみにあり、後人が書き加えたものであろうというのが定説です。

この「奥義に云はく」は、第一から第三までの編を書いた三十八歳という役者として盛り、芸の絶頂の時代から十年以上経過し、体力も落ち、老を感じ始めた五十代に入ってから書かれたものと推測します。「最近の若い連中は・・・」などと若手を批判するのはいつの時代でも五十代以上のベテランであり、三十代の役者の語る言葉には聞こえません。父であり芸の師であった観阿弥は五十二歳で、世阿弥の最大の支援者であり芸の理解者でもあった足利義満は五十一歳で亡くなっています。父と義満を偲びつつ、自分も同じ年齢に達した五十一、二歳頃に書き上げたのではないでしょうか。

風姿花伝の著述目的

世阿弥は「奥義に云はく」の冒頭で風姿花伝の著述目的を「子孫の庭訓のため注す(子孫への家訓として書き記した)」と述べています。庭訓とは論語に由来する言葉で家訓と同じ意味です。つまり風姿花伝は観世の家を継ぐ子孫に向けた家訓書(その家を守り、盛り立てていくために、子孫への戒めとして書き残された訓示の書)として書いたものであり、広く世間の人々に読まれることを目的に書いたものではないと述べています。これは問答条々の奥書PDF228ページにも同じことが述べられており、ここでは「全くもって他の座にまで自分の考えを及ぼそうというわけではない」とわざわざ断っています。しかし、続いて「望む所の本意(本当の著述目的)」として以下の通りに述べています。

最近の申楽の役者連中を見るにつけ、芸の稽古工夫は疎かで、申楽以外の別の事を熱心に行い、まれにこの芸の高いレベルに到達した時も、ただ一時の表面的なおもしろさによる評判や、しばしの名声と利益に心を奪われて、芸の根源を忘れて芸道の流れを見失ってしまった有様は、申楽がもはや滅びる時が来たかと、これを歎くばかりである。

ここで「序」に述べられていた世阿弥から子孫への最初のメッセージを思い出してください。

「古い芸をまね、新しい芸を工夫するにせよ、決して過去から現在そして未来へと継承されていく芸道の流れを汚してはならない」PDF158ページ

世阿弥は、最近の若い役者連中が、芸の根源(正統な芸の基本の型を身につけること)を忘れて過去から現在そして未来へと継承されていく芸道の流れを見失っていると嘆いています。そして、それを自分が棟梁を務める観世座だけの問題としてでなく、大和申楽全体の問題としてとらえていたようです。「申楽がもはや滅びる時が来たかと、これを歎くばかりである」この文章から読み取れるのは、世阿弥の申楽(大和申楽)の現状に対する強い危機感です。そして、それは大和申楽の若い役者連中の申楽に対する態度だけではなく、大和申楽全体が何か深刻な危機に直面していたことを示しています。

大和申楽存亡の危機

「大和申楽の若い役者達が芸の根源を忘れて芸道の流れを見失っている」という世阿弥の批判は、大和申楽の若い役者に向けられた批判というより、むしろ大和申楽全体に向けての批判だったととらえてみます。「源を忘れて流れを失ふ事、道すでに廃る時節かと、これを嘆くのみなり」という言葉は、当時の大和申楽が存亡の危機にあったことを意味しているように思えます。世阿弥は、大和申楽を取り巻く今の状況を鑑みて、これからの申楽の道と申楽の役者はいかにあるべきかについて、今自分が思っている本音を語ろうとしているのです。

この奥義編が書かれた時期を世阿弥五十一歳の時と仮定すると、足利義満が亡くなって五年が経過した頃です。四代将軍足利義持は申楽より田楽を好み、田楽新座の増阿弥が「冷えに冷えたり」と表現されるほどの幽玄な芸で義持の愛顧を受けていました。また観阿弥没後の申楽は、近江申楽の犬王道阿弥が幽玄な舞と歌で都の人気をさらっていました。物まねを得意とする大和申楽は、田楽と近江申楽の幽玄な芸に押されて存亡の危機に立たされていました。「道をたしなみ、芸を重んずる所、私なくば、などかその徳を得ざらん」とは、「私心を捨てて、みんなでこの危機を乗り越えようじゃないか」という世阿弥からの大和申楽全体への呼びかけにも聞こえます。世阿弥は、物まね以外の新しい芸風を持った若手を育てることが大和申楽を復活させるカギであると考え、大和申楽に新風を吹き込もうとしていたのだと思います。

奥義編の著述目的

「ただ望む所の本意とは」を、電子書籍では「ただ、自分が望むところの本心(本当の著述目的と)は」と直訳しましたが、「この風姿花伝は観世の家の子孫に向けて書いたものであるが、この奥義編では、これからの申楽の道、申楽の役者はいかにあるべきかについて、今自分が本当に思っていること(その本音を)語ろう」世阿弥はこのように述べているように思えます。本音を語ると言っても、単刀直入にズバリと語るのではなく、子孫に語る形を取りながら、しかも父観阿弥の教えを念頭に、言葉を選びながら慎重に、「これからの申楽の道、申楽の役者はいかにあるべきかについて」自分の本音を語るのです。

言葉だけでは伝えられないもの

ことさら、この芸、その風を継ぐといへども、自力より出づる振舞あれば、語にも及びがたし。

「自力より出づる振舞あれば、語にも及びがたし。(己の創意工夫によって作り出す演技もあれば、言葉だけで説明するのは難しい)」には、「時に、新しい芸の風(新風)を吹き込まねばならないこともある」という強い思いが込められているように感じます。それは、はっきり言葉に出していうことは難しいが、大和申楽の伝統である物まねに固執せず、近江申楽や田楽の芸風を取り入れること、特に近江申楽の幽玄な芸風を新風として大和申楽に取り入れたいという世阿弥の強い思いだったのでしょう。

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