奥義に云はく

PDF 89ページ・239ページ
「奥義に云はく」についての投稿サイト
このサイトに電子書籍からアクセスするには、電子書籍(PDF 89ページ・239ページ)の「奥義に云はく」表紙(左上の画像)中央に縦書きで表示された「奥義に云はく」の文字をクリック又はタップしてください。
奥義編の著述時期
風姿花伝の全七編(序を除く)のうち、「風姿花伝第一・年来稽古条々」「風姿花伝第二・物学条々」「風姿花伝第三・問答条々」の三つの編は応永七年(1400年・世阿弥三十八歳)に書かれましたが、全編が完成したのは、応永二十年代(世阿弥五十歳代)と考えられています。
風姿花伝は、およそ二十年に渡り増補・改訂されながら成立した書です。「奥義に云はく」の奥書には応永九年三月二日の日付が付されていますが、これは観世本のみにあり、後人が書き加えたものであろうというのが定説です。
この「奥義に云はく」は、第一から第三までの編を書いた三十八歳という役者として盛りの絶頂の時代から十年以上経過し、体力も落ち、老を感じ始めた五十代に入ってから書かれたものと推測します。父であり芸の師であった観阿弥は五十二歳で、世阿弥の最大の支援者であり芸の理解者でもあった足利義満は五十一歳で亡くなっています。父と義満を偲びつつ、自分も同じ年齢に達した五十一、二歳頃に書き上げたのではないでしょうか。
奥義篇について
この奥義篇は本篇(年来稽古条々・物学条々・問答条々)の壮大な奥書であるという読み方もありますが、この電子古典読書会で本篇の前に奥義篇を読むのは、この奥義篇を本篇の奥書として読まないということです。
本篇(年来稽古条々・物学条々・問答条々)が書かれたのは、世阿弥が役者として盛りの絶頂ともいえる三十八歳の時でした。それから十年以上経過した五十代前半、体力も落ち老いを感じ始めた頃、世阿弥自身を取り巻く環境だけでなく、申楽、特に大和申楽を取り巻く状況も以前とは大きく変化していました。自分だけでなく、これからの申楽の道、申楽の役者はいかにあるべきか。世阿弥も大和申楽も変革を迫られていたのです。
奥義篇は大きく前半部と後半部に分かれています。目次で言えば 「そもそも、風姿花伝の条々」から「およそ、能の名望を得る事」P90〜P98までが前半部分。それ以後最後までが後半部分です。前半部分では「これからの申楽と申楽の役者はどうあるべきか」について世阿弥の考えが語られています。後半では、観阿弥から世阿弥に伝わった申楽の理念のようなものが述べられています。
非常に読み応えのある面白い篇です。世阿弥の目を通して映し出される父観阿弥、その観阿弥が理想とした申楽の姿が実に見事に語られています。
「その風を得て、心より心に伝ふる花なれば、風姿花伝と名づく」「この芸とは、衆人愛嬌を以て、一座建立の寿福とせり」といった名文は、この篇の読みどころです。
本文と現代文を丹念に照らし合わせながら、語句解説を参考にして内容をしっかりと理解してください。その上で朗読音声を聞きながら繰り返し本文を読み込んでいけば、世阿弥の文章の見事さが十分実感できる篇です。
