されば、ただ、人ごとに 一頁

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他の芸風も学び取れ PDF242ページから245ページの要約
大和申楽と近江猿楽ではその芸風が異なっている。近江猿楽は幽玄を基本にし、大和申楽は物まねを基本にしている。しかし本当の名人は、幽玄であれ、物まねであれ、どちらの芸風も完璧に演じられなければならない。事実(大和申楽観世座の)亡父観阿弥が得意とした「静が舞」の能、「嵯峨の大念仏の女物狂」の物まねなどは、この上なく幽玄な芸風であった。また、田楽の芸風は申楽とは比較の対象にならないと思われているが、一昔前に田楽の名人だった本座の一忠は、様々な物まねを演じ尽くし、できない芸はなく、亡父観阿弥は一忠を「自分の芸の師である」とまで言っていた。
にも関わらず、今の大和申楽は物まねに固執し、他の芸風を嫌い、これを取り入れようとしない。これは嫌うのではなく、実力不足による情識(慢心からくる強情)である。たとえ物まねに関して名人と言われたとしても、物まねだけでは人気は続かない。人気が続かなければ都で名人と認められない。物まね、幽玄、田楽、どの芸風も演じられ、どの芸風の演技も観客がおもしろいと感じてくれてこそ、都では名人と認められるのだ。
「物まねだけに固執(執着)せず、近江申楽や田楽の幽玄な芸風を我々も取り入れようじゃないか」世阿弥は、たびたび大和申楽の各座へこのように呼びかけていたのでしょう。その頃の都では、近江申楽と田楽の舞と歌を基調とする幽玄な芸が好まれ、大和申楽が得意としたストーリー性を重視した物まねは人気を落としていました。しかしこの世阿弥の呼びかけに同調する大和申楽の座はありませんでした。
幼い頃から都の空気に触れ、和歌や古典の知識も豊富だった世阿弥にとって、芸の目利きの多い都でその芸が認められることが名人として認められることでした。しかし世阿弥は、観阿弥と違って遠国、田舎の大衆を楽しませるという芸にあまり価値を置きませんでした。
一方大和の他の座は次のように考える人が多かったのだと思います。「都で認められることは確かに役者として名誉なことだろうが、そんな役者は申楽の役者の中でほんの一握りにすぎないではないか。それより(都で名人を目指すより)遠国・田舎の寺社の祭礼で申楽を奉納し、大衆に喜んでもらうのが本当の大和の申楽だ。」この考えの方が現実的であり、また大和申楽の伝統(衆人愛嬌)にも根ざしていました。
かなわぬ情織
大和申楽の座が伝統のものまねだけに固執して、他の芸風を習得しようとしないのは、近江申楽や田楽の芸風が嫌いだからそれらを習得しようとしないのではなく、ただ実力(稽古)が不足していることによる情識(かなわぬ情識)である。世阿弥はこのように分析しています。
「序」に「稽古は強かれ、情識はなかれ」とありましたが、ここでは「稽古は強かれ」と「情識はなかれ」は、それぞれ別個のものではなく、稽古を怠る(稽古の幅が狭い)ことによる実力不足が情識を生み出す原因としています。それが「かなわぬ情識」です。ですから情識(慢心からの強情)を防ぐには、強い稽古によって芸の実力(芸の幅)を上げることが求められるのです。
世阿弥にとっての強い稽古とは、単に厳しい稽古というだけでなく、稽古の幅(十体に渡る稽古)が求められるのです。これを世阿弥は別の言葉でも表現しています。「物数を尽くし、工夫を極めて後、花の失せぬ所をば知るべし」(PDF248ページ)この言葉は「稽古は強かれ、情識はなかれ」を基にして生まれた言葉のように感じます。
世阿弥の芸
田楽の増阿弥が世阿弥の芸を次のように評したと申楽談儀にあります。
ぞう阿、世子の能を批判して云。「有りがたや和光守護の日の光、ゆたかに照らすあめが下」など、たぶやかに云ながす所は、犬王。ありどおしのはじめよりおはりまで、喜阿。かひつくろひかひつくろひ、くせまゐばたらきは観阿也、と云々。
増阿弥が世阿弥の能を批評して言った。「有りがたや和光守護の日の光、ゆたかに照らすあめが下」と、たっぷり歌い通す所は、犬王に似ている。蟻通の最初から最後まで、喜阿弥の如くであり。身繕いをして、曲舞のごとくに舞う姿は、観阿弥そっくりであった。
世阿弥は父観阿弥だけでなく、田楽と近江申楽の名人たちを真似た芸をマスターしていました。
観阿弥亡き後の世阿弥
世阿弥が二十一歳の時、父であり師でもあった観阿弥が五十二歳で亡くなります。父観阿弥が偉大であっただけに、若くして観世大夫(観世座の棟梁)となった世阿弥の苦労は大変なものだったと想像されます。観阿弥が一代で勃興させた観世座の棟梁として多くの座員をまとめていかねばなりません。若い世阿弥より年上の座員も多かったことでしょう。有力寺社への参勤、地方巡業、都での興行と多忙を極める毎日だったはずです。そのかたわら自らの芸の修行も行わなければなりませんでした。足利義満の変わりない愛顧だけが救いだったかもしれません。
北川忠彦著「世阿弥」講談社学術文庫の世阿弥年譜を見ると、二十二歳から三十二歳までの十年間は何も記載がありません。この十年は座の経営と自らの芸の修行だけで精一杯だったのです。しかし若い時代のこの苦労とこの時代に目にし耳にしたことは、世阿弥に従来の習わしにとらわれることなく積極的に新しい物事へ取り組んでいこうという「進取の気性」を養わせたものと思います。
世阿弥は、大和申楽の伝統である物まねだけでなく、近江申楽、田楽新座の幽玄な芸風を学び取り、臆することなく自分の芸に取り入れていきました。今や幽玄こそが都で最も好まれる芸風であることをよく理解していたのです。もともと物まねに曲舞の音曲を取り入れ、物まねと幽玄を融合させた芸を作り上げたのは観阿弥の功績でした。しかし、世阿弥は大胆にも近江申楽、田楽といった現実にいま芸を競っているライバル達の芸風を自分の芸に取り入れたのです。世阿弥が犬王道阿弥の天女舞を自分の芸に取り入れたことはよく知られています。今ならパクリと非難されて当然ですが、当時それがどのように見られていたかはわかりません。ただパクられた近江申楽や田楽の座よりも、どうやら同じ大和申楽の他の座から批判を受けていたようです。なぜなら大和申楽の他のどの座も世阿弥の行動に追従しなかったのですから。
記録には残っていませんが、観阿弥亡き後、世阿弥は近江申楽の犬王道阿弥から直接芸の指導を受けていたのではないでしょうか。自分の尊敬するライバルであった観阿弥の息子からの依頼を犬王道阿弥は心よく受け入れたのだと思います。それが役者の心意気というものなのでしょう。また、当時の近江申楽には犬王道阿弥の芸を継承できるだけの後継者がおらず、自分の芸を託せるのは世阿弥において他にないという思いが犬王道阿弥にあったのかもしれません。そこは名人同士が以心伝心で伝わる何かがあったのでしょう。観阿弥が本座の一忠を「わが風体の師」と呼んで尊敬していたように、父観阿弥亡き後は犬王道阿弥こそが世阿弥にとって「わが風体の師」だったのかもしれません。
ただ世阿弥のそうした行動は大和申楽の中で大きな反感を買ったはずです。観世座の中でさえそれを心良く思わない者がいたでしょう。弟四郎の息子で甥の三郎元重(後の音阿弥)もその一人だったと思われます。音阿弥は、大和申楽伝統である「まづ物まねを取り立てて、物数を尽くして、しかも幽玄の風体ならんとなり」という物まね中心の芸風を生涯曲げませんでした。世阿弥の幽玄への著しい傾倒は、世阿弥自身の孤立化を深めていきました。それが後年の世阿弥の悲劇につながる最大の理由だと思います。
世阿弥が若くして父観阿弥を失ったことは確かに不幸なことでしたが、もし父観阿弥が長寿を保ったならば、世阿弥がこれだけ大胆な芸の革新を行えたかどうかは甚だ疑問です。
音阿弥
音阿弥(観世三郎元重)は、世阿弥の弟四郎の息子で、観阿弥、世阿弥と続く三郎の名を持っていたことから、世阿弥の養子となり、将来観世座を継承する後継者と目されていたようです。大変な芸の名手で、その芸の腕前は世阿弥をも上回るものだったと伝わっています。通説では音阿弥を養子にした後に世阿弥に長男元雅が誕生したため、世阿弥は実子元雅に観世座を譲ったとされています。しかし、世阿弥と音阿弥は、芸風に対する方向性の違いから決別せざるをえなかったのではないでしょうか。幽玄に傾倒していく世阿弥、物まねを守り通そうとする音阿弥、たとえ同じ一族の血縁者であっても、双方が名人であればあるほど芸の世界では譲れないものがあるのです。
六代将軍義教は音阿弥を熱烈に支援し、逆に世阿弥とその息子元雅を冷遇して圧迫を加えます。音阿弥に義教と世阿弥の両者を取りなす気配がなかったことから、世阿弥と音阿弥の間にはもはや修復できない深い溝ができあがっていたのでしょう。観世座は世阿弥派と音阿弥派に分裂し、勢いにおいて音阿弥派が世阿弥派を圧倒します。世阿弥の長男元雅は若くして伊勢で客死しました(暗殺されたともいわれます)。世阿弥は長男元雅が急死したことを「元雅早世するによって、当流の道たえて、一座すでに破滅しぬ」と「却来華」に書き残しています。元雅の死後、世阿弥は佐渡へ流罪となり、音阿弥が正式な観世大夫(観世座の棟梁)として世に認められました。
残忍な性格で恐怖政治を行い、世阿弥父子に圧迫を加えたとして六代将軍足利義教のイメージがあまりに悪く、その義教の愛顧を受け観世一座の棟梁となった音阿弥は悪者に見られがちです。しかし観阿弥と世阿弥を支援した三代将軍義満の政治手法も強権的で義教と大差ありませんでした。政治については義教が父義満に学んだといえます。音阿弥は義教が将軍になる前の青蓮院門跡であった時からその愛顧を受けていました。短気で気難しい性格の義教を人々が敬遠する中で、忍耐と抜群の交際術で義教の愛顧を受けたのであれば、音阿弥は人間的に極めてスケールの大きな人物であったといえます。観阿弥と世阿弥を比較して、大きさでは観阿弥、深さでは世阿弥と評されますが、音阿弥は観阿弥の大きさの継承者だったといえます。
音阿弥によって作られた能は伝わっていません。伝書も残していません。ただ、その芸の腕前は素晴らしく、音阿弥こそまさしく祖父観阿弥の芸の継承者であったといわれます。また座の経営にも優れた手腕を発揮し、義教が暗殺された後も観世座の勢いを維持し、今日までの観世流の礎を築いた人物です。一方、世阿弥の能は世阿弥の娘を妻とした金春禅竹に引き継がれました。
連歌師の心敬(1406年〜1475年)が応仁二年(1468年 世阿弥が亡くなって二十五年後)に「猿楽にも世阿弥とて、世に無双不思議のことにて色々さまざまの能のかずかずを作り置いた。今の最高上手といわれる音阿弥・金春太夫(金春禅竹)なども、世阿弥の門流を伝えたのだ。音阿弥は近くは天下無双の名人で我道の名誉を尽くしているなどと人々が評判しているが、彼も去年の春没してしまった。」と書き残しています。
日本の伝統芸能である能を大成させたのは観阿弥と世阿弥の父子とされ、この二人ばかりが脚光を浴びています。しかし、その能が六百年以上続いている事、その継承の最大の立役者は音阿弥だったといえます。ただ音阿弥に関する資料があまりに少なく、正確な人物像を知るのは不可能です。
