およそ、この道、和州・江州において 二頁

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ライバルは学ぶために存在する

亡父は、常々、一忠が事を、「わが風体の師なり」と、まさしく申ししなり。

観阿弥は田楽の役者で当時あらゆる芸風を演じる神技の名人との評判を得ていた本座の一忠を「自分の芸の師である」と尊敬していたといいます。これは「競争は『勝つ』ことよりも『学ぶ』ことに意義がある」という発想です。

観阿弥、世阿弥と同時代には、田楽本座(京都白川)の一忠だけでなく、田楽新座(奈良)の喜阿弥と増阿弥、近江申楽比叡座の犬王道阿弥などの名人が活躍し、相互に影響を与えつつそれぞれの芸を盛んにしていきました。

the 能. com の能楽用語事典「田楽」

デジタルライブラリー内 能楽「世阿弥のいた環境・ライバル」

草薙龍瞬著「反応しない練習」KADOKAWA に以下のような考えが述べられていました。

私たちは競争という現実があることを誰も否定できない。負けることで不利益を被るなら、人は勝ちにこだわり続ける。「勝つ」ことだけにこだわると、終わりのない「競争」に突入する。しかし完全な勝利(安らぎ)などどこにもなく、負ければその苦しみは生涯つきまとう。ここで考えるべきなのは「競争という現実に自分はどう向き合うか」「どんな心で現実の中を生きていくか」である。競争という現実を否定せず、むしろその中にあって自分はどんな心を保つのか。それを確立しようという思考である。すると競争という現実との新しい向き合い方が見えてくる。「勝つ」という動機以外で競争社会を生きていくこと。勝ちか負けかという二者択一の価値観ではなく、別の価値観で競争社会の中を生きることである。

観阿弥

世阿弥の父観阿弥(1333年〜1384年)は、南北朝の動乱期を申楽能とともに生き抜いた人です。出自は伊賀の服部氏(伊賀忍者で徳川家康の家臣だった服部半蔵と同じ)と伝わっており、その服部の一族の一人が大和の山田申楽座の大夫の家に養子に入り、生まれたのが観阿弥とされています。二人の兄も申楽者であり、長兄は宝生座を次兄は山田座を継ぎました。

未子の観阿弥は当初大和での申楽座の乱立を避けるため、一旦先祖の地である伊賀に退き、現在の三重県名張市上小波田を本拠にして座を組織し、数年の後、座を大和の結崎に移したという説と、初めから大和の結崎で座を組織したという説がありますが、現在では後者の説(初めから大和の結崎で座を組織した)が有力です。当時申楽はようやく民衆の支持を受けるようになった頃で、畿内各地に申楽の座が次々と立てられていました。しかし当時は申楽以上に田楽が盛んな時であり、本来農村の田植えで演じられる芸能であった田楽が都会に進出して流行し、都会人の娯楽として定直していました。

そうした環境の中で、観阿弥は大和申楽の伝統であった物まねに舞歌の要素を取り入れ大衆の心をつかんでいきました。具体的には旋律の面白さが主体だった申楽の謡に、白拍子系統の曲舞・くせまいの音曲を取り入れ、リズム感豊かな新風の謡を歌いだしたことにあります。いわゆる『小歌節曲舞』の完成です。

申楽談儀には観阿弥の芸について以下のように記されています。

上花に上りても山を崩し、中上に上りても山を崩し、また下三位にくだり塵にも交はりしこと、ただ観阿一人のみ也。

上花の芸位に上がってもその芸を我物としてやすやす演じこなし、中上の芸位の芸を演じても同様にやすやすとこなし、更に下三位の下の位の芸まで十分にやり遂げたのは観阿弥一人である。

九位(芸の九段階) を参照ください。

卑俗な下三位のしぐさもやってのけ、一方では「山を崩す」ほどのダイナミックな演技を幽玄に演じることができたのは観阿弥だけでした。観阿弥の芸風は、幽玄な面を持ちながらも、もう一方に非幽玄な大衆的な面を持ち、それを見事に調和させたものだったのです。

その成果を背景にして観阿弥は京の都に進出します。物まねを基本としながら幽玄美を兼ね備えた観阿弥の芸は、芸の目利きの多い都人をも魅了しました。応安四、五年(1371、1372年)に醍醐寺で七日間の演能を催し、それ以後に都での評判が高まりました。その名声を伝え聞いた当時十八歳の三代将軍足利義満は、今熊野で催された観阿弥の舞台を見物します。そこで観阿弥の芸の見事さだけでなく、舞台で獅子の舞を舞った当時十二歳の美少年世阿弥の美しさに魅了されます。それ以降、時の最高権力者である将軍義満の愛顧を受けた観世座の興隆はめざましいものがありました。

南北朝の動乱は、寺社がその生存基盤としていた荘園を失わせ、それにともない宗教の権威も薄らいでいきました。それに対して新しい都市民が興隆しはじめた時代でした。それを考えると、大和から京の都への観阿弥の進出は、まことに時代を見、芸能を支える層を掴んだ行動だったのです。このことは観阿弥の座の棟梁としての経営手腕が並々でなかったことを意味しています。観阿弥は一代で新興の座を芸界の主流に押し上げました。

しかし都で大成功をおさめても、観阿弥は自らの基盤である大衆の存在を忘れませんでした。晩年まで地方巡業に出かけ地域の人達と親しく交わったと伝えられています。五十二歳で亡くなった地も駿河の巡業先でした。

以上は以下の文献を参考にしています
北川忠彦著「世阿弥」講談社学術文庫 P21〜P31
昭和51年2月発行月刊太陽特集「能」世阿弥の生涯から「四座と観阿弥の台頭」P21

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近江猿楽

近江申楽は、もともと山階・下坂・比叡の三座に加え、未満寺・大森・酒人の三座が存在し、前者が上三座、後者が下三座と呼ばれ、下三座の方が上三座より古い歴史を有していましたが、近江申楽という場合、次第に日吉大社に参勤する上三座を指すようになりました。観阿弥・世阿弥と同時代に犬王道阿弥という名人が比叡座より出て幽玄な舞と歌で観客を魅了しました。

the 能. com の能楽用語事典「近江猿楽」

犬王道阿弥

近江申楽の犬王道阿弥は幽玄な芸風で知られ、観阿弥亡き後の申楽界を牽引していった役者です。年齢も観阿弥と同世代ないしは若干若かったと考えられています。生年は不明ですが没年は応永二十年と記録があり、それは世阿弥が五十歳の時です。五十二歳で亡くなった観阿弥が生きていれば八十一歳ですから、犬王は当時としてはかなり長命を保ったものと思われます。犬王も観阿弥・世阿弥と同様足利義満から愛顧を受け、義満は自分の法号である道義の一字を犬王に与え、道阿弥と名乗らせました。

応永十五年に足利義満が別邸北山殿(今の金閣寺)に後小松天皇を招き天覧能(天皇に能を披露すること)が催されました。天覧能には申楽の各座から選りすぐりの役者が参加して芸を披露しました。この天覧能において犬王道阿弥が能を尽くしたとの記録が残っています。世阿弥も参加していたはずですが、こちらは何の記録も残っていません。このことから犬王道阿弥が当時申楽界の重鎮として広く尊敬を集めていたことがわかります。天覧能が行われた時、犬王道阿弥は七十歳前後の年齢であったと推測されます。かつて「河原の乞食の所業」と卑しめられていた申楽が、天皇の前で芸を披露できるまでになったのです。高齢の犬王道阿弥にとって感激の極みであったことでしょう。

観阿弥の芸風が大衆的な物まねに幽玄な舞歌を加味して両者を見事に調和させたものであったのに対して、犬王は大衆的な側面を全く持たず、舞歌の幽玄性をどこまでも追求する芸風であったと言われます。世阿弥の娘婿に当たる金春禅竹は(恐らく世阿弥から聞いた話でしょうが)犬王の芸風を「幽にやさしく更に俗を知らざるものなり」と記録しています。

その犬王は、申楽の先駆者である観阿弥を敬慕し、観阿弥の命日には供養を欠かさなかったと申楽談儀が伝えています。

犬王は、毎月十九日、観阿の日、出世の恩也とて、僧を二人供養しける也。観阿、今熊野の能の時、申楽と云事をば、将軍家御覧初めらるゝ也。世子十二の年也。

犬王は毎月十九日、観阿弥の命日に、申楽が世に出ることができた恩人であると、僧を二人呼び供養をした。観阿弥が演じた今熊野の能の時、申楽というものを、将軍家がはじめてご覧になったのである。世阿弥が十二歳の時であった。

この申楽談儀の記述は、世阿弥が観阿弥を犬王よりも上位に置いて権威つけるための創作かもしれません。しかし、もしこの記述が本当のことならば、世阿弥は犬王と親しく交わっていたと思います。そうであるなら、観阿弥亡き後、世阿弥は犬王を師と仰ぎ、幽玄な芸について直接その指導(稽古)を受けていたのではないでしょうか。

世阿弥が犬王の芸を高く評価していたことは間違いなく、同じ申楽談儀に犬王の芸について「上三花にて、つゐに中上にだに落ちず(芸の九段階の中で、上位三段階に達しており、一度も中の上の段階に落ちなかった)」と語っています。また、世阿弥は犬王の得意芸であった天女舞を大和申楽に取り入れました。 九位(芸の九段階)

当時の犬王は観阿弥と並び称される名人でしたが、観阿弥が世阿弥という天才を後継者として持っていたのに比べ、不幸なことに後継者に恵まれず、そのため近江申楽は衰退していきます。

しかし、犬王道阿弥の幽玄な舞と歌は、世阿弥によって夢幻能という形で日本の伝統芸能として引き継がれていきました。世阿弥は父観阿弥だけでなく、犬王道阿弥というもう一人の師を持っていたのです。

以上はインターネット上で公開されていました 竹内昭著「犬王道阿弥の研究」を参考にしました。

古川日出男著「平家物語 犬王の巻」を原作として、アニメ「犬王」が公開されました。

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