およそ、能の名望を得る事 一頁

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花を極めた役者 観阿弥 PDF246・247ページの要約
上手な役者が目利きでない(鑑識眼の低い)観客に気に入られることはない。一方、下手な役者が目利き(鑑識眼の高い)の観客に認められる事もない。下手な役者が目利きの観客に認められないのは当然だが、上手な役者が目利きでない観客に気に入られないのは、目利きでない観客の芸の上手・下手を見分ける能力(鑑識眼)が低いからであるが、能の奥義を会得した上手な役者で、しかも工夫をこらす役者であれば、また目利きでない観客が見ても面白いと感じるように能を演じるだろう。この工夫と熟練を極めた役者を花を極めているというのである。したがって、このレベルに達している役者は、どんなに年寄りであっても、若い役者の若さゆえの魅力(時分の花)に引けをとることはありえない。だから、このレベルに達した役者こそ、都でも名人として認められ、遠国・田舎の人たちまでもすべてその役者の芸を面白いと見るだろう。この工夫を会得した役者は、大和申楽でも近江申楽でも、あるいは田楽の芸風までも、見物人の好みや望みによって、何でも演じこなせる名人なのである。
上の文章がいうところの「花を極めた役者」これは、亡父観阿弥のことを指しています。
近江申楽の犬王道阿弥の芸は、幽玄を尽くした非常に高度な芸位で、目利き(鑑識眼の高い)である都の観客には名人芸と高く評価されたけれども、遠国・田舎の芸の上手下手を見分けられない目利きでない(鑑識眼の低い)大衆には、まったくその魅力が理解できませんでした。それに対して、亡父観阿弥の芸は、一面に都の目利きの観客に支持される幽玄で高度な芸位でありながら、他方において目利きでない遠国・田舎の大衆にも理解できる非幽玄の大衆性を持っていました。
観阿弥の得意とした演目に「自然居士」があります。観阿弥は「自然居士」を田舎の大衆(目利きでない観客)を前に演じる時は、都の貴人(目利きの観客)を前にして演じる時とは異なり、田舎の大衆にも面白いと感じられるようにわかりやすい工夫をこらして演じました。同じ演目であっても観客の鑑識眼に合わせて工夫をこらして演じたのです。
この幽玄と大衆性の両方を持ち合わせた役者は、都では名人として認められ、遠国・田舎の大衆からは面白いと見られ、観客の好みや望みに応じて、どんな芸風の演技でも演じこなせるのです。観阿弥とはそのような役者でした。
