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世阿弥から子孫への最初のメッセージ(伝)

「古きを学び、新しきを賞する中にも、全く風流を邪にする事なかれ。」これは風姿花伝における世阿弥から子孫への最初のメッセージ(伝)です。しかも、それはとても大切なメッセージ(伝)です。

「古きを学び、新しきを賞する」は、論語・為政篇「温故知新・故きを温ねて新しきを知る(古いものを学ぶ中に新しいもの知る)」に由来して書かれています。ここでは「古い芸をまね、新しい芸を取り入れる」という意味に解釈しますが、世阿弥にとって芸道とは「温故知新・故きを温ねて新しきを知る(古いものを学ぶ中に新しいもの知る)」そのものだったということです。

「全く風流を邪にする事なかれ」風姿花伝の解説書をいくつか調べてみると、この箇所の「風流」の意味を「伝統」としているものがほとんどです。「風流を邪にする事なかれ」とは「伝統を汚すな」つまり「伝統を守れ」という意味なのでしょうが、「風流」「伝統」と一言で言い切ってしまうと意味が漠然としてしまいます。

世阿弥がここでいう「風流」とは「過去から現在そして未来へと流れていく芸道の流れ」をいうのだと思います。「先人から自分そして後人へと継承されていく芸道の流れ」と言い換えてもよいかもしれません。つまり「先人から受け継いだ芸を下品なものに貶めて後人に伝えてはならない」と世阿弥は述べているのです。もちろん未来へ引き継ぐことを含めて伝統というのであれば、伝統と一言で言い切っても間違いではありません。

世阿弥にとって「温故知新・故きを温ねて新しきを知る(古いものを学ぶ中に新しいもの知る)」こそが芸道でしたから、先人から学んだ芸をそのまま後人に伝えるだけでなく、新しい芸を取り入れることも大切な芸道でした。「風流(伝統)」とは変わることなく受け継がれるものではなく、時代とともに、人とともにその姿を変えていくものです。能はそのようにして今に至るまで延々と継承されてきました。ですから世阿弥の時代の能(申楽)は現代の能とはその姿(風姿)が大きく異なっていたはずです。前ページ(序一頁)で「申楽は仏在所あるいは神代にその起源を求めることができるが、長い時が流れ、時代が遠く隔たってしまったので、その当初の姿(風姿)を知ることはもはやできない。」と世阿弥が述べているのもそれを言っています。

それでは、なぜ「風流を邪にする事なかれ(先人から受け継いだ芸を下品なものに貶めて後人に伝えてはならない)」なのかというと、それは前ページ(序一頁)で述べられた通り、申楽は神代仏在所に起源を持つ神聖な芸事であるからです。

正統な芸の基本の型 

ただ、言葉卑しからずして、姿幽玄ならんを、享けたる達人とは申すべきをや。

先の「風流」の意味を踏まえて、つづく文章「ただ、言葉卑しからずして、姿幽玄ならんを、享けたる達人とは申すべきをや」「謡の言葉が下品でなく、舞い演じる姿が優美であるのを、正統な芸を受け継いだ(身につけた)達者というべきであろう」と現代語訳しました。「謡の言葉が上品であること(上品に聞こえること)」「舞台で舞い演じる姿が優美であること(優美に見えること)」この二つを正統な芸の基本の型として、達者になるまで(確実に身につくまで)何度も繰り返し稽古しろと世阿弥は伝えています。

世阿弥の言葉を伝える「申楽談儀」の冒頭に、「申楽は神楽をもととするのだから、舞と謡を基本にすべきである」と書かれています。世阿弥が物まね(演技)より、舞と謡を申の基本としたのは、申楽が神楽をもととする神聖な芸事であるからです。

「継承」をテーマにした伝書

「先人から受け継いだの基本型を確実に身につけ、それを貶めることなく次の世代に継承していけ」これが子孫に向けた世阿弥の最初のメッセージ(伝)です。そしてこの最初のメッセージが、「家として血統を継承することが家なのではなく、その家に伝わる道を継承することを以て家とする。その家に生まれた人がその家の人なのではない、その家に伝わる道を極めることを以てその家の人とする。 風姿花伝・別紙口伝・跋文  PDF305ページ」という世阿弥の子孫への最後のメッセージ(伝)へと連なっていくのが風姿花伝です。

よって風姿花伝は「継承」をテーマにした伝書と捉えてよいかと考えます。

二つの戒めから見えてくる観阿弥と世阿弥

一、好色、博奕、大酒、三重戒、これ古人の掟なり。

「色ごと、賭けごと、酒、」
の三つは、世阿弥の父である観阿弥が定めた禁止事項(古人の掟)です。

まことに大衆的で庶民くさい戒めです。観阿弥は自分自身がこの三つで失敗することが多かったのでしょう。わが身がそれで痛い目にあったればこそ、それを子孫への戒めとしたのです。しかしそれは芸において大衆の存在を最も大切にしたことの裏返しでもありました。観阿弥はよく働きよく遊ぶをモットーに、社交的で貴賎を問わず人と平等に付き合い、一座の棟梁としても座員の面倒をよくみる頼れる存在でした。その分、一座の台所事情(財政状況)は火の車で資金繰りに追われる毎日だったかもしれません。ある意味、明るい性格の苦労人でしたが、同時に何事であれ自分で開拓し、困難を克服するバイタリティーを持っていました。観世一座の勃興は観阿弥のこの社交的で明るい性格とバイタリティー溢れる開拓精神に依るところが大きかったのです。

一、稽古は強かれ、情識はなかれ。

稽古は厳しく行え、慢心からの強情にとらわれてはならない」は、世阿弥が定めたの戒めだと考えます。この言葉については、問答条々の第五問答の最後に「稽古は強かれ、情識はなかれとは、これなるべし」とあり、「これ」についての具体的な説明がなされています。

この戒めからは、自分を厳しく律しつつ芸の道をどこまでも極めていこうとする直向きな純粋さが感じ取れます。数行前にある「この道に至らんと思わん者は、非道を行ずべからず(この申楽の道で大成したいなら、申楽以外の他の道に入ってはいけない)」この言葉にあるように、世阿弥は父観阿弥とは対照的に芸の道一筋の堅物でした。一方、世阿弥は父観阿弥のように世間でうまく立ち回ることは苦手でした。父観阿弥とは違い世渡り上手ではなかったのです。「情識」「慢心から起こる強情で頑固な心」「うぬぼれから人の意見を聞かず争う心」をいいます。恵まれすぎた少年時代を過ごした世阿弥に対して、父観阿弥は、慢心・うぬぼれへの厳しい叱責を幾度となく繰り返したことが想像されます。慢心・うぬぼれは、人の意見に耳を貸さず、人と争う強情頑固な心を作ります。よって世阿弥は、謙虚に人から教えを受け、父観阿弥の芸はもちろんのこと、ライバルである近江申楽や田楽の芸であっても優れた芸はそれを学び取り、それを積極的に自分の芸に取り入れました。それによって慢心・うぬぼれを自分から遠ざけたのです。具体的には「奥義篇」に詳しく書かれています。「情識」禅で用いられる言葉(禅語)です。世阿弥が禅から多くの影響を受けていることは、風姿花伝だけでなく世阿弥が残した数々の伝書からうかがい知ることができます。能も室町時代の他の芸術と同様、禅の影響を大きく受けています。

仏教学者の鎌田茂雄氏はその著「禅とは何か」の中で世阿弥の言葉として「稽古は強かれ、情識はなかれ」を紹介し、その意味を「稽古はどこまでもやらなくてはならない。自分の方がうまくなろう。他人よりうまくなろうとして稽古してはならない。それは邪道である。(人よりうまくなることが稽古の目的ではない)」と現代語訳されています。「情識」「慢心から起こる強情で頑固な心」「うぬぼれから人の意見を聞かず争う心」と心の状態として解釈せず、「稽古は強かれ」「情識」を結びつけて稽古の本質を説いているのです。鎌田氏はこの解釈を曹洞宗の開祖道元禅師の「悟ったからいいというのではない、悟った後も修行は永遠に続いていく」という無限の修行観から導いたと説明されています。禅の修行も申楽の稽古もその本質は同じであるということです。

観阿弥・世阿弥父子について、それぞれがどのような人物であったかのイメージ持っておくことは、風姿花伝を読み進める上で決してマイナスにはならないと考えます。伝書とは人が人に伝えるものです。伝える人がイメージできてこそ納得できるメッセージ(伝言)というものもあるからです。「観阿弥と世阿弥はどちらが優れていたかと問われれば、大きさでは観阿弥、深さでは世阿弥と答えれば、当たらずといえども遠からずである」北川忠彦著「世阿弥」講談社学術文庫 P31

心の主とはなれ。心を主とせざれ。

村田珠光(1423年〜1502年)は、侘茶、茶道の開祖とされる人です。大徳寺の一休禅師(とんちで有名な一休さんです)に禅を学びました。その時とももに禅を学んだのが金春禅鳳(母が世阿弥の娘)です。村田珠光が弟子の古市澄胤に送った書状が残っており、珠光は次のように述べています。「この道、第一悪きことは心の我慢、我執なり」心の我慢とは、わがまま、慢心のことです。我執とは、自分に対する執着、つまりうぬぼれです。「茶の湯の道において最も悪いのは、慢心とうぬぼれである」そして「心の主とはなれ。心を主とせざれ」ともいっています。「自分の心の主人となれ。心を主人にしてはいけない」心を自分でコントロールしなければいけない。心のままに自分が引っ張っていかれてはいけないということです。この古市澄胤宛の書状は「心の文」と名づけられWikipedia村田珠光 で全文を読むことができます。珠光の言葉が禅をベースにしたものであることは疑いありません。「心の文」は世阿弥のいう「情識」を理解する上でも非常に役立ちます。

能の大成者としての観阿弥と世阿弥

能を大成させたのは、観阿弥・世阿弥父子に違いないが、この二人が生きた時代の間には社会的に激しい変動があった。能の歴史を考える場合、彼ら二人を一緒にして大成者といってしまっては、漠然としすぎる感がある。父と子の二人の果たした役割は、それぞれ違いがあったはずだ。観阿弥と世阿弥の間には三十年の隔たりがあり、その時期には南北朝の内乱があった。古代から中世へと社会が根底からゆさぶられていたのである。 戸井田道三著 「観阿弥と世阿弥」岩波書店の「はじめに」 から引用。 

「序」を読み終えたら、「神儀篇」へ進んでください。

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