およそ、今の条々工夫は 二頁

 PDF253ページ

「道のためのたしなみ」と「寿福のためのたしなみ」

「一つ、」以下の文章は、後から気づいて書き加えられたもので、いわゆる増補文です。

「ひたすら世間の理にかかりて(ひたすら俗世間の道理に専進して)」とは、「ひたすらお金と名誉を求めることに専念する」ということです。それは芸の道が廃れる一番の理由だと言っています。芸の道に精進(努力)すれば、寿福が増すだろう。しかし、寿福を求めて精進(努力)するのなら、芸の道は廃れるだろう。芸の道が廃れれば、寿福は自然に消滅してしまう。

PDF249ページに「この芸は、芸位を極めて、立派な名を残すこと、これが天下に認められたということであり、能役者にとっての寿福増長なのである」と述べられています。日々精進して、芸を極め、名人として天下に認められることが、役者にとっての最大の名誉(寿福増長)だというわけです。

では、利益(収入)はどうであったかというと、農村の祭りに一座が呼ばれて演じる場合、その費用は村持ちで行われました。一方、都市で勧進申楽興行を行う場合は、見物料は観衆の個人負担でした。ですから、興行においては、魅力的な芸で観衆を惹きつけ、どれだけの観衆を集められるかが収入に直結しました。これが将軍や有力大名が主催する演能の場合、破格の演料が支払われました。足利義教の将軍宣下の日に室町御所で行われた演能では、音阿弥に米五百石に相当する金額の銭が支払われたとの記録があります。将軍や有力大名に招かれる名人は申楽師の中でもほんのわずかでしたが、途方も無い寿福(利益)が得られたのです。戸井田道三著「世阿弥と観阿弥」岩波同時代ライブラリーP156を参照しました。

しかし、そうした名誉と利益(寿福)を目的として精進するなら、芸の道は廃れ、いずれ寿福も消滅するといいます。精進すべきはあくまで芸の道であり、その結果得られる名誉と利益こそが本物の寿福であると。ここには世阿弥の大いなる理想があります。現実には、芸の道に精進すれば必ず寿福がついてくるというものではありません。観阿弥が「衆人愛嬌」を大切にしたのは、その現実をよく知っていたからです。

正直円明

「正直円明(素直で偽りがなく円満で明るい)」は、序にあった「情識(慢心からの強情・頑固)」の反対語として世阿弥が作った造語かと思います。正直円明に身をたもって稽古に精進すれば情識は自ずから消滅する。世阿弥はそのように考えていたのだと思います。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA