白珠は人に知らえず〈巻六・一〇一八〉元興寺の僧の自ら嘆く歌

僧侶となり仏に仕える身となった限り、仏道修行の他に何の修行があろうか。己の修行を知るのは己のみ、己の仏道修行を人に知られる(認められる)必要などあるものか。海中深くある貝の中にひっそりと納まった真珠の如く、私の仏道修行も私自身の中に人知れずひっそりと納まっていればそれでよいのだ。

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<語句解説>

現在の元興寺・Wikipedia

歌を深く味わってみます。

元興寺で修行する一人の僧侶の嘆きが歌にされています。

「海の中深く堅い貝殻の中に納まった真珠を人は容易に見いだすことはできない。人に見いだされなくても(認められなくても)いいんだ。人が私のことを認めてくれなくても、私自身が自分で自分を認めることができるなら、人に認めてもらわなくてもかまわないんだ。」

当時の僧侶の世界は純然たる縦社会でした。それでも役人の世界ほど門閥は通用せず、才能ある僧侶と認められれば門閥に関わらず地位を上げていくことができました。中には朝廷で重く用いられた僧侶もいました。そこに魅力を感じて僧侶になる優秀な若者も多かったのです。この歌を詠んだ僧侶もそんな一人だったと思われます。しかし、一人の僧侶の才能を認めるのは他の指導的立場の僧侶です。そこには様々な感情や思惑があったものと想像されます。現実には努力は必ず報われるという世界ではありませんでした。

「仏の道を極めることに人の何倍も努力した。仏法の知識は誰にも引けを取らず、人のなし得ぬ修行にも取り組んだ。にも関わらず人はだれも私を認めてくれない。私が努力し知識を深めるほど人は私から離れていく。」

僧侶といえど感情を持った人間です。優秀な僧侶に対する他の僧侶のやっかみや嫉妬もあったでしょう。しかし、恐らくこの僧侶は、人間関係を円滑に進める能力に欠けていたのではないでしょうか。お世辞の一つも言わず、愛嬌もない、正論を吐き自説を曲げない。こんな性格だったのだと思います。そして自分が人に認められない理由がそこにあることを自分自身も十分承知していました。しかし、それでも自分を変えることなくありのままの自分を貫き通したのです。

「僧侶となり仏に仕える身となった限り、仏道修行の他に何の修行があろうか。己の修行を知るのは己のみ、己の仏道修行を人に知られる(認められる)必要などあるものか。海中深くある貝の中にひっそりと納まった真珠の如く、私の仏道修行も私自身の中に人知れずひっそりと納まっていればそれでよいのだ。」自らを嘆いたのではなく、何かをふっ切り真理を悟った歌と読んでこそ、古の時代のこの僧侶への供養になります。

「人知らずして慍(うら)まず、亦(また)君子ならずや。(人が自分を認めてくれなくても腹を立てない、これが教養ある紳士というものだ)」これは論語始まりの章にある孔子の有名な言葉です。「学問は人に認められるためにするものではない。自らを磨き、高めるためにするものだ。」そこには儒教の根本理念としての「修己(己を修める)」があります。元興寺で修行するこの僧侶も、孔子のこの言葉を知っていたはずです。もし仏に仕える身が孔子の言葉に救われたのなら、それはそれでまた皮肉なことではあります。