玉襷畝火の山の橿原の〈巻一・二十九〉柿本人麻呂
壬申の乱が人々の記憶から遠ざかり、それを口にすることも少なくなった頃、柿本人麻呂は近江の国大津を通り過ぎました。荒れ果てた嘗ての都は、春草が生い茂り、霞がたてばそれとは知らず行き過ぎる人もいるほどです。中大兄皇子(天智天皇)が、なぜ突然大和国飛鳥から琵琶湖畔の近江国大津に遷都したのか、その理由については定説がありません。
この解説サイトは電子書籍にリンクが貼られていますが、電子書籍をダウンロードせずに読まれる方(主にスマートフォンで読まれる方)のために、電子書籍の表紙とページの画像、語句解説、朗読音声などが含まれています。
パソコン(Windows・Macintosh)又はiPadで読まれる方は、電子書籍をダウンロードしてお読みください。ダウンロードサイトは右サイドバーに表示されたURLをクリック又はタップすると起動します。
下の歌の画像をクリック又はタップすると朗読音声が流れます。
下のページ画像で現代語訳を確認してください。
<語句解説> をクリック又はタップすると、
本文中の重要語句について解説したページが開きます。
歌を深く味わってみます。
壬申の乱が人々の記憶から遠ざかり、それを口にすることも少なくなった頃、柿本人麻呂は近江の国大津を通り過ぎました。荒れ果てた嘗ての都は、春草が生い茂り、霞がたてばそれとは知らず行き過ぎる人もいるほどです。中大兄皇子(天智天皇)が、なぜ突然大和国飛鳥から琵琶湖畔の近江国大津に遷都したのか、その理由については定説がありません。
中大兄皇子は、六四五年の乙巳の変の後に皇太子となり、自らが中心となって政治改革(大化の改新)を断行しました。六六一年に斉明天皇が崩御した後もすぐには即位せず、六六八年にようやく大津宮で即位します。大津への遷都は即位の前年に行われました。ですから大津への遷都が即位を目的としたものであったことはあきらかです。遷都と中大兄皇子(天智天皇)が皇太子のまま長く政務をとり続けたことは無関係とは思えません。中大兄皇子(天智天皇)は、まず先に遷都して、その後に新都で即位することにこだわっていたのです。
その理由を推し量ってみると、中大兄皇子(天智天皇)は、遠く九州から東征し、大和の国橿原で即位した神武天皇にならい、新しい都で即位することで体制を一新しようとしたのだと思います。新都がなぜ近江の国大津だったのかはわかりません。神秘主義者の天智天皇のこと、中国から伝わった風水など、呪術的な要素により決定されたのかもしれません。
乙巳の変の後、中大兄皇子(天智天皇)は次々に政敵を滅ぼし、未だ即位せずといえども事実上の最高権力者として君臨していました。遷都に表立って反対する者はいませんでしたが、豪族達の多くは、内心、神武以来の父祖の地である大和を離れることに強い不満を持っていました。中大兄皇子(天智天皇)は豪族達の不満に気づくことなく、いや気づいていたにしろ、それを無視して遷都を強行しました。実際その頃の中大兄皇子(天智天皇)は、それができるほどの絶対的権力を掌握していました。
即位して三年後の六七一年、天智天皇は病に倒れます。病床に皇太弟である大海人皇子を呼んだ天智天皇は、大海人皇子に大津京の存続を約束させようとします。しかし大海人皇子はそれを拒否、出家して吉野へ隠遁します。現実主義者の大海人皇子は豪族達の不満をよく理解しており、国をまとめるには大和へ都を還すしかないと考えていました。大海人皇子が吉野へ隠遁した後、天智天皇は息子である大友皇子を皇太子とし政務を代行させます。翌六七二年天智天皇が崩御します。それを契機に大海人皇子と大友皇子(弘文天皇)の間で壬申の乱が勃発しました。この戦いは近江存続派と大和還都派の争いでもありました。大和へ都を帰すことを望む多くの豪族達は大海人皇子に味方し、天智天皇というカリスマ指導者なき近江存続派は敗れ去ります。弘文天皇(大友皇子)は大津宮で自殺し、乱は終わりました。翌年大海人皇子は大和の国飛鳥で天武天皇として即位しました。
歴史上の出来事は、古代にさかのぼる程に資料が少なく、事実の解明に困難を来します。中大兄皇子(天智天皇)が、いかなる理由で大津に遷都したのかを解明するのも同じです。大津京への遷都に関する資料が少ない中、この柿本人麻呂の長歌は貴重な資料です。歌はそこに言葉で記された内容だけでなく、詠み人が歌全体を通して伝えたい思いがあります。柿本人麻呂がこの長歌で伝えようとしたもの、それを読み取るのも一つの歴史解釈です。
「神武天皇が橿原で即位なさってより、次々と歴代の天皇がそこで即位し国を統治された大和の地を離れ、どうしたものか、近江の大津に都を移された天智天皇の大宮(皇宮)は、ここにあったと聞くけれど、今は春草が生い茂り、春霞の中で悲しく荒れ果てていることだ」
柿本人麻呂が大津京に仕えていた人々への鎮魂の思いを詠った歌とされています。しかしこの長歌から感じ取れる人麻呂の思いは、神武以来の人代にくさびを打ち込もうとした天智天皇への「なぜあのようなことをなさったのか」という哀惜の思いです。「あの遷都さえなければ、大乱は起こらず、多くの命が失われることもなかったであろうに」哀惜の思いで大乱に倒れた人たちを鎮魂しているのです。
神武天皇以来、代々の天皇が国を統治してきた地である大和を捨て、近江国大津で新しい国家の建設に乗り出そうとした天智天皇の行為は、当時の人々(特に豪族達)には、神武以来の人代にくさびを打ち込み、歴史を中断させるものでした。それは、先祖と自分たちの繋がりが絶たれるのではないかと思うほどの衝撃だったかもしれません。当時の人々にとって、大和の地は離れてはならない聖地だったのです。しかし哀惜の思いだけをストレートに歌にすることは、はばかり多いことでした。ですから哀惜の思いで鎮魂を表現したのです。
万葉集十九巻に「壬申の乱のしずまりし後の歌二首」として次の二首があります。
大君は神にしませば赤駒のはらばふ田居を京師となしつ。<四二六○>
大君は神にしませば水鳥の多集く水沼を皇都となしつ。<四二六一>
天皇は神でいらっしゃるので赤毛の馬がはらばう田んぼを都にしてしまわれた。<四二六○>
この歌は壬申の乱で天武天皇(大海人皇子)に味方し功績を挙げた大伴御行の歌です。大君(天皇)は天武天皇のことで京師は天武天皇が造営に着手した藤原京を指していると思われます。(日本書紀に天武天皇五年に天皇が「新城・にいき」の選定に着手し、その後も「京師」に巡行したという記述があります)
天皇は神でいらっしゃるので水鳥のたくさんあつまる水沼を都となされた。<四二六一>
この歌は詠人知らずとされます。通説ではこの歌も天皇は天武天皇で皇都は藤原京とされています。しかし「水鳥のたくさんあつまる水沼」を琵琶湖と解釈すれば皇都(京)は大津京、天皇は天智天皇とも解釈できます。なぜ詠人が名前を出さないのか?そこに歴史解釈が存在するように感じます。