君子は豹変し、庖厨を遠ざけ、危に近寄らず。

君子とは

論語など中国の古典にしばしば登場する君子は、道徳と教養を兼ね備えた紳士の意味に解釈されることが多いのですが、もともと君子とは、一般民衆より上位の立場にあり国政にたずさわる高位・高官の貴族を指す言葉でした。そうした高い身分の高級官僚には高い道徳が備わっているという前提があったのです。ところが、実際には高級官僚であっても道徳の欠如した人間はいるわけで、そこで君子にはことさら道徳、つまり人格と学識が強調されるようになりました。君子の対義語が小人です。小人は道徳の欠如した無学無教養の人間を意味します。論語ではしばしば君子と小人を対比させながら論が進みます。

「君子喻於義、小人喻於利(君子は義に喻り、小人は利に喻る)君子は全体と将来を見据えて考えるが、小人は目先の自分の利害のみを考える。」論語・里仁篇 第四章

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君子は豹変す

現代では豹変は「彼は態度を豹変させた」というように、手のひらを返すような裏切りに近い変化を連想させる悪いイメージの言葉です。しかし出典の易経には次のように書かれています。「大人虎変、君子豹変、小人革面(大人は虎変し、君子は豹変し、小人は面を革む)虎や豹の毛皮は汚れてしまっても毎年美しい毛皮に新しく生え変わる。大人と君子はこのように美しく変化するが、小人は難しい顔を笑顔に変えるのが精一杯である。大人は君子より格上の人間で、虎皮は豹皮よりも格上とされていました。

豹変は本来「美しく変わる」「善く変化する」「立派になる」といった善い意味の言葉であり、「君子は豹変す」「優れた人間は、速やかに過ちを改め善い方向に向かう」というのが本来の意味です。

豹変とは元々褒め言葉なのですが、現代では変節漢を非難するような使われ方をします。豹は走るスピードの速い動物です。そのスピードの速さが、素早く変わる、手のひらを返すとイメージされたのでしょう。

君子は庖厨を遠ざく

「君子は庖厨を遠ざく」は、現代では「男子は台所に入り料理のような女子のする仕事をすべきではない」という意味に使われます。別の言い方をすれば「男子厨房に入るべからず」です。

出典は孟子で以下の通りです。

「曰、無傷也。是乃仁術也。見牛未見羊也。君子之於禽獣也、見其生、不忍見其死。聞其声、不忍食其肉。是以君子遠庖厨也。(曰く、傷むこと無れ。これ及ち仁術なり。牛を見るも未だ羊を見ざればなり。君子の禽獣に於けるや、その生を見てはその死を見るに忍びず。その声を聞きては、その肉を食らうに忍びず。是を以て君子は庖厨を遠ざくるなりと。)」

斉の宣王は、祭りのいけにえにする牛を哀れに思い、牛の代わりに羊を使うことにした。人民は宣王がけちなので小さな羊にするのだと悪口を言った。宣王はそれを残念に思い、孟子に尋ねた。孟子は、王様が本当に生き物を哀れむなら、牛も羊も哀れなことには区別がないはずだと言った。宣王がそれを肯定すると、孟子は次のように言った。「王様が心配なさるには及びません。犠牲になる獣を哀れむ心こそ仁への道筋なのです。今までは牛の哀れなようすは見ておられましたが、羊は見ておられなかったからです。君子が禽獣に対するとき、生きているのを見ると、その死ぬのを見るのは堪えられません。その死ぬときの声を聞いては、その肉をとうてい食べることはできません。ですから君子は生き物を殺す料理場には近寄らないのです。」

孟子の言うところの「君子は庖厨を遠ざく」は、孟子の性善説の基本である「惻隠の情(哀れに思う気持ち・忍びざるの心)」を言います。それは他人に対する思いやりであり、私たちが人の困難や苦悩を知った時に感じるあの同情の気持ちです。

「君子は庖厨を遠ざく」は、出典の孟子と今の使われる意味では随分とかけ離れています。

君子危に近寄らず

日本人なら誰でもが聞いたことのあることわざですが、中国のどの古典にものっていません。それだけでなく、中国では使われることもないようですから、いかにも中国の古典にあるかのように日本人が作り出したことわざということのようです。

論語の為政篇に「義を見て為さざるは勇なきなり」という有名な言葉があります。「弱者をいじめるのはもちろん卑怯な行為だ。しかし、それを見て見ぬふりをして通り過ぎるのも同じくらいに卑怯な行為だ。武士道は卑怯を許さない。」こんな武士道のイメージがわいてくる日本人の心に響く言葉です。しかし、現実の社会においては、この言葉の通りに正義と信じて真っ直ぐに行動したら、逆にボコボコにされたということの方が多いのです。そうした現実を経験した又は目にした人が「義を見て為さざるは勇なきなり」の反省から作った言葉が「君子危に近寄らず」だったとすれば、なぜか納得できます。「正義とはこんなにも危いものであるという現実を知れ」という警告です。そう解釈すれば、これも同じく私たちの心に響く言葉ではあります。