學而第一 一章「学びて時に之を習う」
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論語始まりの章
「子曰く」は「先生はおっしゃった」「孔子が言われた」という意味で、弟子が師である孔子の言葉を紹介する形を取っています。論語で「子曰く」とあれば、それに続くのは孔子の言葉です。しかし「子」を「論語」そのものと解釈してはどうでしょう。「子曰く」を「論語が説くところは」という意味にとれば、論語が生命を持った存在として、今を生きる私達に直接語りかけてくれます。
「学びて時に之を習う、また説ばしからずや」
「時に」は、「適時に」「適当な時に」と解釈している本(岩波文庫・金谷治訳注「論語」など)。渋沢栄一は「時々刻々(間断なく)」と解釈しています。また「時を決めて(みんなが集まり復習会を開く)」岩波現代文庫・宮崎市定「論語」と大胆に現代語訳している本もあります。ここでは「いつも、常に」という意味に解釈しておきます。「習う」は、何度も繰り返すこと、反復することです。学習とは、学んだことを何度も繰り返すことです。「語句解説」を開いてください。「習」という漢字の成り立ちが説明されています。「学んで時に之を習う」は、「学んだことを常に何度も繰り返し復習する」という意味です。「また説ばしからずや」とは、「なんと喜ばしいことだろう」という意味ですが、「繰り返し学ぶ中で生まれる喜び、それが論語を学ぶ喜びなんだ」と解釈してはどうでしょう。日本に伝来した最初の書物であり、古典中の古典である論語は、まずその冒頭で「論語すなわち古典は、何度も繰り返し読みなさい」と伝えています。
「朋有り遠方より来る、また楽しからずや」
ここは「朋遠方より来たる有り」と訓読している(書き下している)場合もありますが、どちらにせよ意味は同じです。訪ねて来た遠方の友人と語り合う。それはなんと楽しいことだろう。多くの友人との語らいが自分を大きくしてくれるんだ。一人引きこもって学問の道を極めようなんて人間を小さくするだけだよ。「人と交わる中で体験として知識を得る」これが論語の学問なんだ。
「人知らずして慍らず、また君子ならずや」
他人が自分を評価してくれなくても気にしない。人の評価なんてものより、自分が嬉しいと思う気持ち、楽しいと感じる心が大切なんだ。それができる人が少ないからこそ、そうあるべきなんだ。「君子」とは「教養と徳を身につけた紳士」といった意味ですが、「また君子ならずや」で「そんな人が立派なんだ」という意味に解釈した方がここでは意味が通りやすいと思います。「人知らずして慍らず」この言葉には孔子の体験が深く刻み込まれています。孔子は「人に認められたい」という思いが人一倍強い人でした。しかしその思いとは裏腹に、若い頃は人に認められず、悶々とした日々を過ごしていました。「人知らずして慍らず、また君子ならずや」は、そんな若い時代の未熟な自分を反省し懐かしむ言葉です。人間は誰でも「人に認められたい、評価されたい」という思いを抱いて生きています。その思いは2500年前の孔子も今の私達も何ら変わるところはありません。
「人知らずして慍らず」を生み出すもの
新型コロナウィルスが世界的な流行(パンデミック)となり、ワクチンの開発が急務とされ登場したのが、これまでのワクチンと全く異なる発想で開発された有効率90%以上のmRNAワクチンです。そのワクチンの開発の立役者がハンガリー出身の女性科学者カタリン・カリコ博士です。
カリコ博士はともにワクチン開発の研究を進めたドリュー・ワイスマン博士と共に2023年のノーベル生理学・医学賞を受賞しました。
研究者としてのカリコ博士の人生は困難の連続でした。1985年三十歳の時に社会主義国だった母国ハンガリーの経済が行きづまり研究資金を打ち切られます。母国ハンガリーで研究を続けることが困難となったカリコ博士はアメリカへ行く決心をします。それは引き返すことのできない人生の大きな賭けでした。彼女は片道切符だけでアメリカへ渡ったのです。幸いにもアメリカで研究者の職を得ることができたカリコ博士はmRNAの研究に没頭します。しかしその研究はほとんど評価されませんでした。研究費を削減されたりポストを降格されたりと、アメリカでの研究者としての日々も苦難の連続でした。研究費が足らず同僚の研究費に頼ったり、尊敬していた人に批判されひどく傷ついたこともあったそうです。その苦難をどう乗り越えたのかについて、カリコ博士は次のように語っています。「どうにもできないことに時間を費やすのではなく、自分が変えられることに集中しなさいと愛読書に書いてあります。他人を見て、働いていないのに給料がいい、昇進していると落ち込む人がいますが、私は違います。いつも今自分に何ができるかに立ち返りました。他人や環境は変えられません。自分が今すべきことに集中するのです。」
研究がまったく評価されず、ポストを降格され、研究費も削減され、尊敬していた人にも批判される。それでも「人知らずして慍らず」と平然としているから立派なのではありません。私たちが学ぶべきなのは、この現実に対してカリコ博士が取った「自分が変えられることに集中する」「何ができるかに立ち返る」「自分が今すべきことをなす」という態度(行動・実践)です。この態度(行動・実践)こそが「人知らずして慍らず」を生み出すのです。
はじめに「人知らずして慍らず」という思いがあり、それが行動や実践につながるのではありません。「学んで時にこれを習い(学んだことを常に何度も繰り返し復習する)」「朋遠方より来た有り(訪ねて来た遠方の友人と語り合い、体験として知識を得る)」の実践が「人知らずして慍らず」という思いをふつふつと湧き上がらせます。孔子は「人知らずして慍らず、君子ならずや」を最後に置くことで「君子は実践により作られる」と伝えたかったのだと思います。
自分と他人を比べない
一つのことをやり遂げよとする時、ライバルは他人ではなく自分である。昨日の自分より今日の自分が少しでも進歩していれば、ゴールは確実に近づいている。努力の継続とは、つねに自己ベストを目指す営みであり、他人と自分を比べないことは、モチベーションを持続させるための重要なポイントである。「続ける力」伊藤真 P47より
仏教における「正しい努力」
「正しい努力」とは「人に認められるため」とか「成果を上げるため」といった “外部のもの” を目標にすることではありません。最初の動機が何であれ、いったん始めたら、 “内面的な動機” に立って励むことです。つまり、集中や充実感といった心の “快” を大事にして、一つの作業を続けることです。禅寺での「作務」とは、まさにその実践です。「意味があるか」を問うのではなく、無心に励んで、充実感や「心を磨く」爽快感、納得を目的にするのです。「反応しない練習」草薙龍瞬
兼好法師の「人知らずして慍らず」(徒然草130段)
徒然草130段に次の文章があります。「人にまさらん事を思はば、ただ学問して、その智を人に増さんと思ふべし。道を学ぶとならば、善に伐らず、輩に争ふべからずといふ事を知るべき故なり。大きなる職をも辞し、利をも捨つるは、ただ、学問の力なり。」
現代語訳は以下の通り「人より勝ろうと思えば、ただひたすら学問して、その智を人よりも増そう(高くしよう)と思え。何のために学問をするのかといえば、善行を自慢せず、朋輩と争ってはならないことを知ることができるからである。高い官職を辞し、大きな利益をも捨て去ることができるのは、ただ学問の力だけである。」
ここでいう学問(道を学ぶ)とは「身を修めること(己を修めること・修己)」を言います。
兼好法師のいう「人にまさらん事」とは、「人より出世する事」「人より裕福になる事」といった世俗の勝ち負けではなく、俗世の欲望を超越すること(捨て去ること)です。「出世、金儲け・・・そんな俗世の人間の心を支配している欲望に自分の心を支配されたくなくば、ひたすら学問して(身を修めて)その智を高めろ」兼好法師はそう語っています。
孔子の言葉と兼好法師の言葉、二人の言葉の底には同じものが流れています。「道を学ぶとならば、人知らずして慍らずといふ事を知るべき故なり。(何のために学問をするかといえば、他人・世間が自分を評価してくれなくても気にする必要はないことを知ることができるからである。)」「他人の目、世間の評判、そんな世俗の評価にとらわれて何になる」「人知らずして慍らず」には、そんな思いが込められています。
ひたすら学問(身を修める事)に打ち込む中でわきあがってくるもの。それが「善に伐らず、輩に争ふべからず」であり「人知らずして慍らず」です。
北京冬季オリンピックで見えた「人知らずして慍らず」
2022年2月に開催された北京冬季オリンピックのスキージャンプ混合団体で日本女子のエース高梨沙羅選手がスーツの規定違反により失格となりました。この時は日本だけでなくドイツ・ノルウェー・オーストリアの5名の選手が同じくスーツの規定違反により失格となる異常事態でした。興味深いのは失格者を出した各国の競技後の対応です。ドイツ・ノルウェー・オーストリアの三国が失格の裁定について審判員に猛烈な抗議を行ったのに対して日本はまったく抗議しませんでした。
オリンピック終了後母国ポーランドに帰国した審判員は地元メディアのインタビューに対して次のように答えています。「日本人は文句ひとつ言いませんでした。間違いを認め謝罪してくれました。これ以上なんら問題にならないと思います。一方ドイツなど三カ国は日本と状況は異なります。彼らは結果を引き出すために何が起こったのかを徹底的に問い詰めます。それはとても感情的なものです。」
日本が間違いを認め謝罪したというのは真実ではないと思います。しかしこのような場合に抗議しなければ、欧米では間違いを認め謝罪したと受け止められるのです。「審判が自分に不利な判定をしても腹を立てない」日本ではこれが紳士的な態度(君子の態度)とされ、逆に審判に感情むき出しで抗議する姿は見苦しいとされます。もちろん日本人とて理不尽な判定には抗議しますが、たとえ理不尽な判定でも最後には感情を押し殺してそれを受け入れます。日本人にとって「いつまでもこだわらない」これも「人知らずして慍らず」なのです。
スーツの規定違反により失格になった高梨沙羅選手は、当初精神的に相当ダメージを受け競技の続行が心配されましたが、北京オリンピック終了後の3月2日に開催されたスキージャンプワールドカップ・リレハンメル大会で見事に優勝を果たしています。これは彼女が、何ができるかに立ち返り、自分が今すべきことに集中した結果です。もし彼女が北京でのスーツの規定違反の判定にいつまでもこだわっていたなら、リレハンメルでのワールドカップ優勝はなかったでしょう。