学而第一 七章 「賢を賢として色を易え」

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賢者、賢人とはいかなるものか

子夏は孔子の門人。姓は卜(ぼく)で名は商。子夏はその字(・あざな)です。

「賢を賢として色に易え」とは、「賢人を賢人としてまるで美人(色)を好むように尊重しなさい。」という意味です。賢人を尊重することを色(色ごと)を好むことにたとえるのは不謹慎に思えますが、孔子が生きた時代、色(色ごと)を好むことは道徳的に否定されていませんでした。もう一つの解釈では「易」を「易・かろんじる=軽んじる」の意味にとり「賢を賢として色を易じ・けんをけんとしていろをかろんじ」(賢徳を尊んで女色を軽んじる)と解釈しています。

通釈では、実践こそが学問であることを述べた章だとされていますが、ここでは賢者、賢人とはいかなるものかを述べた章と解釈してみます。

学歴社会の日本では、一流大学を卒業した人物は、就職、昇進、結婚まで、ただ一流大学を出たというそれだけの理由で高い評価を受けます。しかし、何かの事情で大学には行けなかったが、ライバルの優秀さを常に尊敬し(競争心が強いだけのエリートはこれができません)、親孝行で家族を大切にし、組織への忠誠心と仕事への誇りを持ち、友人からはどんな時でも信頼されるような人物であれば、学歴だけが自慢のエリートよりはるかに高い評価を受けて当然だということです。

学歴や肩書き(家柄や身分)は人間にとって外側の飾りに過ぎません。賢者は外側の飾りではなく内側の人格で評価されるべきである。子夏の思いをこのように解釈してみました。

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