日本国においては 一頁

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秦氏と秦河勝
秦氏は飛鳥時代に朝鮮半島から日本に渡って来た渡来人の一族で、養蚕と機織りものを広めた一族です。東映映画村のある京都の太秦・うずまさは、秦氏が朝廷に収める絹織物をうず高く積んだことがその地名の由来とされ、秦氏の本拠地だったとされる場所です。太秦には河勝が建立し秦氏の氏寺となった 広隆寺・こうりゅうじと通称「蚕の社」と呼ばれる 木嶋坐天照御魂神社・このしまにますあまてるみたまじんじゃ があります。
この条では、観世・金春の祖先とされる秦河勝の一生が説話的に語られています。
河勝の名が初瀬川氾濫より助かったこと(河に勝つ)に由来すること、河勝が中国秦の始皇帝の生まれ変わりであり、中国古代王朝の秦・しんにちなんで秦・はたの姓を朝廷から賜ったことなどは、古くから言い伝えられていたようです(実際に秦氏は秦の始皇帝の末裔であると自称していました)。一方、御門(天皇)の夢の中にあらわれた子供が「自分は秦の始皇帝の生まれ変わりである」と述べるくだりは、世阿弥の夢玄能に通じるものを感じさせます。この条は、古くからの言い伝えに世阿弥が脚色を加えたものと思われます。
申楽談儀(世阿弥が語った芸談を次男元能が筆記した伝書)二十三条には、「大和申楽は始祖秦河勝の直系である」と記されています。世阿弥のこの言葉は、大和で活動する申楽の座が、遠い近いの差はあれ血縁でつながっており、何らかの序列はあったにしても同族意識を持っていたことを示しています。大和申楽の座は、お互いが協力的・相互補完的な関係であり、競争的・敵対的関係ではなかったものと想像されます。中世に起こった申楽の座の中で、大和申楽四座のみが今に至るまで継承されている理由の一つがそこにあるように思えます。
日本古来の儀式音楽である雅楽を世襲してきた家の一つ東儀家・とうぎけも秦河勝の子孫とされています。


