平の都にしては 一頁

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平安遷都と秦氏

聖徳太子の時代に活躍した秦河勝以後、秦氏は歴史の表舞台からはその名が消えます。しかし京都の太秦を本拠地として着々と財力を蓄えていました。その財力が発揮されたのが平安遷都です。桓武天皇は、まず平城京から長岡京へ遷都することを計画し、藤原種継を造営長官に任命します。藤原種継の妻は秦氏の出身であり、秦氏はスポンサーとして遷都を資金面から支援しました。しかし長岡京は造営長官藤原種継の暗殺や大洪水などにより、都として機能した期間はわずか数年でした。続く平安遷都の造営長官であった藤原小黒麻呂の妻も秦氏の出身でした。また自分たちの勢力圏への遷都は秦氏にとって大きなメリットがあったことは容易に想像できます。秦氏は再びスポンサーとして平安遷都の資金を支援しました。また秦氏は土木・治水においてすぐれた技術を持っており、技術面でも平安京造営をサポートしました。秦氏は平安遷都の最大のスポンサーでありサポーターだったのです。

天暦の治

時代は、聖徳太子の飛鳥時代から平安時代中期の村上天皇(926年〜967年)御代に一挙に飛びます。村上天皇は関白藤原忠平が亡くなった後、関白をおかず天皇自らが政治を行いました。その治世は天皇親政による理想の政治とされ、その時代の元号から「天暦の治」と呼ばれます。同じく天皇自ら親政を行ったのが醍醐天皇(885年〜930年)で、その治世は「延喜の治」と呼ばれました。醍醐天皇と村上天皇の天皇親政は、平安時代の理想政治として「延喜・天暦の治」と呼ばれます。

村上天皇・Wikipedia

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