験なき物を思わずは〈巻三・三三八〉 大伴旅人 酒を讃むる歌

人と飲むではなしに、一人手酌で濁った酒を飲むのです。濁った酒の色は、旅人の心をそのまま写しとったかのようにどんよりとした暗さを醸し出しています。この歌には旅人の深い孤独と沈痛の思いが言霊となって宿っています。

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<語句解説>

大宰府政庁跡・Wikipedia

歌を深く味わってみます。

729年、時の権力者左大臣長屋王が藤原氏の策謀により自殺に追いやられるという長屋王の変が起ります。変の後、大伴旅人は九州太宰府の長官に任じられますが、それは旅人が宮廷内の派閥で長屋王派に属していたための左遷でした。

旅人は太宰府赴任中に筑前守として同地に赴任していた山上憶良とともに筑紫歌壇を形成して多くのすぐれた歌を残しました。歌人としての旅人には太宰府への左遷は好運なことだったのです。しかし公人としての旅人は、都から遠く太宰府へ左遷され、いつ帰れるともわからない我が身の不遇を嘆いたことでしょう。

旅人は無類の酒好きだったこともあり、太宰府赴任中に「酒を賛美する歌」を十三首作っています。その中の二首(この歌と次の歌)を取り上げました。

「考えても仕方ないことをくよくよと思い煩うよりは、一人濁った酒で杯を傾けることにしよう」

太宰府に赴任して以来伝わって来る都の情勢は、長屋王の変の後に勢力を盛り返した藤原氏の隆盛ばかりです。名門大伴氏を率いる旅人としては気が気ではありません。そして追い打ちをかけるように太宰府に一緒に同行してくれた妻が亡くなります。

しかし、あれこれと一族の将来を案じても、都から遠く離れた太宰府では打つ手はありません。いくら嘆いても、亡くなった妻が戻ってくることはありません。酒に酔って気を紛らわすしかありませんでした。

人と飲むではなしに、一人手酌で濁った酒を飲むのです。濁った酒の色は、旅人の心をそのまま写しとったかのようにどんよりとした暗さを醸し出しています。

この歌には旅人の深い孤独と沈痛の思いが言霊となって宿っています。