憶良らは今は罷らむ〈卷三・三三七〉山上憶良
この歌からは、ただほのぼのとした子供と妻に対する愛情だけではない何かが伝わってきます。五十代後半ではじめて国司に任命され赴任した伯耆の国での新任の宴、これから部下になる役人たちを前に憶良が詠んだ歌と考えてみてはどうでしょう。当時の五十代後半はすでに人生の晩年にあたりました。
この解説サイトは電子書籍にリンクが貼られていますが、電子書籍をダウンロードせずに読まれる方(主にスマートフォンで読まれる方)のために、電子書籍の表紙とページの画像、語句解説、朗読音声などが含まれています。
パソコン(Windows・Macintosh)又はiPadで読まれる方は、電子書籍をダウンロードしてお読みください。ダウンロードサイトは右サイドバーに表示されたURLをクリック又はタップすると起動します。
下のページ画像をクリック又はタップすると朗読音声が流れます。
下のページ画像で現代語訳を確認してください。
<語句解説> をクリック又はタップすると、
本文中の重要語句について解説したページが開きます。
歌を深く味わってみます。
詞書では山上憶良が宴会を退出する時に詠んだ歌となっています。「罷る」は尊敬、謙譲の意味を含み貴人のもとから退出する時などに使われる語です。するとその宴は上司又は憶良より身分の高い人が主宰した宴であったことになります。
山上憶良は四十二歳の時、遣唐使の書記として唐に渡り、儒教・仏教の最新知識を身につけて帰国しました。唐に渡る以前は無位無冠の下級役人でしたが、遣唐使の書記に選ばれたことは、山上憶良が並々ならぬ能力を持っていたことを示しています。しかし四十二歳という年齢は決して若くはありませんでした。帰国後も上級貴族の出身でないため出世に恵まれず、長い下積みの後、霊亀二年(716年)にやっと伯耆国の国司に任命されます。その時すでに五十六歳になっていました。その後は、因幡、筑後の国司を歴任します。筑後の国司の時に太宰府の長官として九州に赴任していた大伴旅人と筑紫歌壇を形成したことは有名です。万葉集第三巻に収められたこの歌は、前後に大伴旅人が太宰府で詠んだ歌が多数収められていることもあり、太宰府で大伴旅人が主宰する宴において詠まれた歌とされています。そうならば憶良と旅人の親しい関係がうかがい知れる歌ではあります。山上憶良が筑後に国司として赴任したのは六十六歳の時でした。幼子がいるにはいささか高齢です。しかし不遇時代が長かった憶良が、妻をめとり子供を授かったのが晩年であったとしてもおかしくはありません。ならば妻も愛おしく、ましてや歳がいってできた子が目に入れても痛くないほど可愛いのも無理からぬことです。
しかし、この歌からは、ただほのぼのとした子供と妻に対する愛情だけではない何かが伝わってきます。この歌が詠まれたのを大伴旅人が主宰する太宰府の宴と決めつけない方がよいかもしれません。五十代後半ではじめて国司に任命され赴任した伯耆の国での新任の宴、これから部下になる役人たちを前に憶良が詠んだ歌と考えてみてはどうでしょう。当時の五十代後半はすでに人生の晩年にあたりました。
宴の主役である新任の国司が早々に宴を中座するのです。「みなさん、私憶良は歳のせいか最近めっぽう酒に弱くなってしまいました。申し訳ありませんが、もうこの辺でおいとまさせていただきます。どうぞ皆さんは引き続き宴をお楽しみください。家では幼子と妻が私の帰りを待っているのです。出世が遅かった分、私は妻を娶るのが遅く、子供も幼く可愛い盛りです。みなさんお察しください。この憶良の心中を」
「罷る」という尊敬、謙譲の言葉を使ったのは、酔いにまかせた戯言のつもりだったのでしょう。
「みなさんお察しください。人生の晩年にようやく国司に任命され、なんとか妻を娶り、やっと子に恵まれた私の気持ちを」やや自虐的ではありますが、これがこの歌に込められた山上憶良の本音だったように思えます。
山上憶良は本来こうした宴会が苦手だったようです。人との交わりよりも家族を大切にするよき家庭人だったのでしょう。
<電子古典読書会> 山部赤人と賀茂真淵が仰ぎ見た霊峰富士
ここをクリックまたはタップしてください。