山部赤人と賀茂真淵が仰ぎ見た霊峰富士
奈良時代の歌人山部赤人と江戸時代の国学者賀茂真淵の二人は約千年の時代を隔てています。千年の時を隔てた二人は、ともに万葉集と富士で強く結びついています。
奈良時代の歌人山部赤人は、長歌・短歌合わせて五十首が万葉集に収められており、柿本人麿とともに歌聖と称されました。山部赤人は聖武天皇に仕えてその行幸に従い、宮廷歌人として天皇を讃える多くの歌を詠んでいます。同時に万葉第一のナチュラリスト(自然派歌人)であり、自然の情景を鋭い感性で歌い上げました。
賀茂真淵は江戸時代中期に万葉集を研究して国学を起こしました。江戸時代は中国伝来の漢学(主に儒学)が学問の中心でした。国学は漢学を否定し『古事記』『日本書紀』『万葉集』など日本に古来より伝わる古典を研究することで、日本の古代の思想と文化をあきらかにし、そこに日本人としての生き方のより所を求めようとするものでした。国学は幕末の尊王攘夷思想に強い影響を与えたとされています。
二人はともに霊峰富士を仰ぎ見た歌を残しています。それぞれの歌は一千年の時を隔てて同じ場所で詠まれました。山部赤人が富士を歌に詠んだ奈良時代の田子の浦と賀茂真淵が富士を歌に詠んだ江戸時代の東海道由井の宿は同じ場所(現在の静岡市清水区)だったのです。
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万葉歌人山部赤人が仰ぎ見た富士山
万葉集に収められた「山部宿禰赤人が不盡山を望てよめる歌一首」の長歌に添えられた短歌(反歌)です。長歌・短歌ともに山部赤人を代表する歌としてよく知られています。特にこの短歌は新古今集に収められ、後に小倉百人一首にも選ばれた名歌で、富士を詠んだ和歌の代表として古来より多くの人に暗誦されてきました。新古今集・百人一首では「田子の浦にうち出でて見れば白妙の富士の高嶺に雪は降りつつ 」と新古今調の和歌に若干修正されていますので、こちらで暗記されている方も多いかもしれません。
「田子の浦を抜けるとそれまで閉ざされていた視界が一気に開けて眺望のよい場所へ出た。すると目の前に頂きに真っ白な雪をかぶった巨大な富士の山が突然現れ、その勇壮で神々しい姿にただただ圧倒されるばかりであった」
遠方に小さく見えていた富士山が近づくにつれ徐々に大きく見えてきたのではありません。田子の浦を抜けるとそれまで閉ざされていた視界が一気に開け、目の前に頂きに雪をかぶった巨大な富士山が突然現れたのです。こんな富士との出会いは圧巻だったろうと思います。「うち出でて見れば」という言葉に赤人のその感動が込められています。
写真やテレビで富士山を見慣れた私達現代人には、頂きに雪をかぶった富士山はもはや当たり前の景色に過ぎません。しかし万葉人の赤人には圧倒される程に勇壮で神々しい景色として心に刻まれたのです。
赤人が伝えたかったのは自分自身の感動です。自分の感動を伝えるという方法で、頂きに真っ白な雪をかぶり泰然とそびえ立つ富士の勇壮で神々しい姿を歌に閉じ込めたのです。
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国学者賀茂真淵が仰ぎ見た富士山
賀茂真淵(1697年~1769年・五代徳川綱吉~十代徳川家治の治世)は、浜松の賀茂神社の神官の家に生まれました。浜松からは富士を遠望できますが、この歌は真淵が四十四歳の時に浜松から江戸へ向かう道中に東海道由井の宿(今の静岡市清水区由比)で富士を目の前に仰ぎ見て詠んだ歌です。
「ちりひじ」とは「塵泥」「塵・ちり」は「ちり、ごみ」。「泥・ひじ」は「どろ」です。「はちすの花」は「蓮の花」の別名です。
「富士は一体いつの時代からの塵と泥が積み重なってあんなに高くそびえ立ち、蓮の花ような立派で美しい頂を持つ山になったのだろう」
この歌の表現は、古今和歌集の仮名序にある「高き山も、麓の塵泥(ちりひじ)よりなりて天雲棚引くまで生ひ上れるごとくに、この歌もかくのごとくなるべし。」「現代語訳:高い山も、麓の塵と泥から生じて雲がたなびく(高さに)まで成長しているように、この歌(和歌の道)もこのように(一歩一歩・ゆっくりと)発達するのだろう。」から取られています。
そこには「私が起こした国学も、古典研究の小さな積み重ねによって、いつか富士の山のごとく立派で美しい姿をみせることだろう」という真淵の思いが込められています。ちりとどろの堆積から出来た富士、その富士の真っ白い雪をいただく山頂を、泥の池から白い清廉な花を高く咲かせた蓮の花に見立てたのです。