衾道を引手の山に妹を置きて〈巻二・二一二〉柿本人麻呂 反歌

妻の死因は疫病(感染症)だったと思われます。この時代に流行した疫病といえば、感染力が強く致死率も高い天然痘だったのでしょう。今のように庶民が栄養過多の生活習慣病で死ぬなどありえない時代です。長歌に「世の中を背きし得ねば(世の中の道理を背くことができないで)」とあるように、この当時天然痘にかかれば死ぬことが世の道理(運命)だったのです。

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<語句解説>

歌を深く味わってみます。

妻の死因は疫病(感染症)だったと思われます。この時代に流行した疫病といえば、感染力が強く致死率も高い天然痘だったのでしょう。今のように庶民が栄養過多の生活習慣病で死ぬなどありえない時代です。長歌に「世の中を背きし得ねば(世の中の道理を背くことができないで)」とあるように、この当時天然痘にかかれば死ぬことが世の道理(運命)だったのです。これといった治療も受けず、家族から隔離された部屋で一人寂しく亡くなったのかもしれません。人麿は疫病で死んだ妻を人里離れた山の中に置いてきます。それは置いてきたというより捨ててきたという言い方が正しいのかもしれません。そこには疫病で亡くなった多くの人たちが同じように運ばれ、悲しみを感じることなどできないほど凄惨な状況でした。生きた心地がしなかったのも当然です。長歌の最後に詠われていますが、天然痘の流行がおさまった後、妻の遺体を置いてきた大鳥の羽易の山にあえぎながら登り、妻を探してみたけれど、生きていた時の妻の姿は一瞬たりとも見ることはできません。そこには累々と白骨が積み重なっているだけで、来なければよかったと後悔するのみでした。

日本では天然痘は大陸との往来が盛んになりはじめた頃から増え始めました。大陸から仏教が伝来した頃に天然痘が流行しています。仏教反対派の物部氏は、これは日本の古来の神をないがしろにした神罰であると、天然痘の流行を恰好の材料として仏教賛成派の蘇我氏を攻撃しました。日本書紀にも「かさでてみまかる者、身焼かれ、打たれ、くだかるるが如し(発疹が出て死ぬ者、高熱が出て、激しい痛みと苦痛をともなう)」との記録があります。735年~737年の奈良時代の日本で天然痘が大流行しました。当時の日本の人口の三割近い人が天然痘で亡くなったと記録されています。天然痘は大陸との窓口であった九州で発生し、736年の九州では農民の多くが天然痘に感染して死んだため収穫量が激減し大飢饉となりました。翌737年には天然痘の流行は畿内にまで拡大し、平城京では朝廷の役人の大多数が感染し政務が停止する事態となります。当時政権を担っていた藤原氏の四兄弟(藤原武智麻呂、藤原房前、藤原宇合、藤原麻呂)も天然痘で亡くなりました。天然痘は738年にはほぼ収束しますが、農業生産は全国的にひどいダメージを受けました。743年に発布された墾田永年私財法は天然痘の感染拡大による農業生産の落ち込みを回復させることを目的としたものです。当時の聖武天皇は仏教に帰依することで疫病の流行を抑えようとし、東大寺の大仏を建立し、全国に国分寺を建立しました。

中世ヨーロッパではペストの流行で人口の三分の一が亡くなったとされます。同じように天然痘の流行は戦争や大災害以上に深刻な影響を日本の社会に与えました。天然痘は多くの人の命を奪うだけでなく、経済に深刻なダメージを与え、社会の変革を促したのです。

日本では、神社に参拝する前にまず手水舎で手を洗い口をすすぎます。穢れを落とし身体を清めて参拝するためです。これは、疫病が手と口を介して感染することを知っていたことの証左です。古来、日本人にとって穢れとは疫病の病原体だったのです。ウィルスや細菌の存在を知っていたわけではありませんが、目に見えない何か(穢れ)が手を介して口から入り疫病を引き起こすと考えていたのです。

感染症(疫病)と人類の戦いは遥か昔に始まり、まさに今も続いています。