楽浪の志賀の大わだ淀むとも〈巻一・三十一〉柿本人麻呂 反歌
人麻呂は流れ消えることのない(いっときも変わることのない)入江の淀みを見つめながら、時とともに消え去り、もはや会うことのできない昔の人を思いました。消えないもの(志賀の大わだの淀み)と消え去ったもの(昔の人)を対比させ、消え去った者にはもう会うことはできないと、その死を悼み鎮魂しています。
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歌を深く味わってみます。
「大津の入江の琵琶湖の水は淀んだまま無くならないけれど、昔大津宮に仕えた人たちは、時の流れに消え去ってしまい、もはや会うことはできない」
人麻呂は流れ消えることのない(いっときも変わることのない)入江の淀みを見つめながら、時とともに消え去り、もはや会うことのできない昔の人を思いました。消えないもの(志賀の大わだの淀み)と消え去ったもの(昔の人)を対比させ、消え去った者にはもう会うことはできないと、その死を悼み鎮魂しています。
以下は、論語・子罕篇の有名な章です。
「子、川の上に在りて曰く、逝く者は斯くの如きか、昼夜を舎めず」
孔子は川のほとりに立ち、間断なく流れ行く川の流れの中に「流れて帰らぬもの(無くなってしまうもの)」と「常に流れくるもの(無くならないもの)」の両方を見てとりました。「逝く」には、「行って帰らぬ」という悲観的な意味と、「常に流れて止まない」という楽観的な意味の二通りが込められています。
「流れ消えることのない入江の淀み」「間断なく流れ行く川の流れ」それをどのように見てとるかは、その人のその時の心が決めることです。