春の日の霞める時に〈卷九・一七四○〉常世辺に住むべきものを〈卷九・一七四一〉
伝説に取材した歌を多く詠い、伝説歌人として万葉集にその名を残した高橋虫麻呂とはこのような人物であったのかとその人物像がイメージできた時、虫麻呂が伝説に託して詠ったものが何であるかが見えてくるように思います。
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歌を深く味わってみます。
作者高橋虫麻呂は天平年間(729年〜749年)に活躍した歌人です。万葉以外には名の見えぬ人ですが、万葉集巻六・九七一に「天平四年に常陸国守であった藤原宇合が按察使に任命された時に高橋虫麻呂が作った歌一首」とあり、藤原宇合の家人又は資人(しじん 下級官僚)と推測されています。ただ記録も伝記もなくどのような人物であったかは不明です。岡田喜久雄著「高橋虫麻呂伝説歌考」の中にその人物像について興味深い記述がありますので引用してご紹介します。
「高橋連虫麻呂、天平前後に歌を詠み方々を旅した。このあまり身分の高くない、平々凡々たる一官吏の辿る道、即ち一生の軌跡は彼自身が一番よく知っていた通り、朝廷に重きを為すことも、又贅を極めた生活をする希望もない、まるで一本の細い糸にすぎなかった。彼の歌からも充分窺えるように、激しい恋愛に溺れるでもなく、家庭に愛情を注ぐでもなく、わずかに藤原宇合卿との関係を支えに、地方官として身を粉にして働く虫麻呂が、誰の指図も受けず魂を宙に遊ばせる歌の世界を得た時、自らの中に類のない歌才を見出し生き生きと歌い始めた」
伝説に取材した歌を多く詠い、伝説歌人として万葉集にその名を残した高橋虫麻呂とはこのような人物であったのかとその人物像がイメージできた時、虫麻呂が伝説に託して詠ったものが何であるかが見えてくるように思います。
「水江の浦島に子をよめる歌」は浦島伝説を歌に詠んだ長歌です。浦島伝説は「日本書紀」「丹波国風土記逸文」にも記述があり、日本では古くから知られた伝説でした。
私たちが知る浦島太郎が助けた亀に連れられて竜宮城に行くという亀の恩返しは、室町時代に成立した御伽草子によって浦島伝説に書き加えられました。それは次のような中国の逸話を基にしています。昔、晋の孔愉が子供にいじめられている亀を助けたところ、救われた亀はふり向きながら海へ帰って行きました。後に県の知事に出世した孔愉が印鑑を作ると、その印鑑の把手が亀の首がふりむくようにできあがりました。不思議に思って考えてみると、昔救った亀がふりむきながら海に帰って行ったその姿にそっくりであることを思い出します。今日の出世は亀の恩返しに違いないと大変感謝したということです。
そして不老不死の仙境というユートピア(理想郷)伝説は、日本に限らず世界中に存在します。有名なものでは中国の六朝時代の文学者陶淵明(365年〜427年)が民間伝承に基づきながら創作した「桃花源記」があります。「桃花源記」では、漁師が行き着いた場所は誰も知らない奥深い渓谷をよじ登った山中のユートピア(理想郷)でした。人類は古来よりユートピア(理想郷)を想像し続けてきたのです。
虫麻呂の詠んだ歌では、浦島の子が鰹と鯛を釣り、大漁に得意になって(有頂天になって)七日間も家に帰らなかったとあります。結果、海の果てを過ぎて神の女(乙姫)に出会い、結婚し不老不死の仙境で、永遠に老いることなく、死ぬこともなく暮らせるという幸運に恵まれます。しかし虫麻呂は、浦島の子が得意になって七日間も家に帰らなかったことを好意的に語っているわけでは決してありません。それどころか、虫麻呂はこの歌を通して読み手に何か大切なことを警告しているのです。「人生の大きな罠は、得意絶頂の時に幸運の衣を着てやってくる」「ラッキー、俺はなんて運が強いんだ」そう思ったときこそ、人生最大のピンチの入り口だと虫麻呂は教えてくれています。
海の果てを過ぎて出会った神の女は、実は人間の生気を吸い取る魔界の女でした。魔界の一年は人間界の三十年に相当します。魔界の女は、人間を魔界の御殿で三年生活させ、九十年分の生気を養わせます。人間は魔界で三年生活すると望郷の思いが湧き上がります。そこで魔界の女は人間を故郷へ帰らせるのですが、その時に決して開けてはならないと告げて人間の九十年分の生気が詰まった櫛笥を持たせます。人間の生気は櫛笥に詰まっている限り人間のものです。しかし人間がその櫛笥を開けた途端、そこに詰まっていた生気は解き放たれ人間から失われるのです。人間が故郷へ帰ると、人間界ではすでに九十年の歳月が経過していますので、すでに家はなく父母もいません。驚き動揺した人間は、決して開けてはならないと告げられた言葉が信じられなくなり、櫛笥を開けてしまいます。櫛笥を開けたとたん、人間の九十年分の生気が白い雲となって飛び出し魔界へと飛んでいきます。魔界の女はその生気を吸い取り自分の生命を延ばします。しかし生気を失った人間は、九十年分の年月を一瞬にして老い、そして死んでしまうのです。
人間の生気を吸い取った魔界の女は笑いながら次のように詠います。「人間とは何と愚かな生き物なんでしょう。自分で自分の生気を解き放ち死んでしまうのだから。さあ、鰹と鯛を準備して、次の人間を魔界に誘い込むことにしましょう」
中国明代末期に洪自成によって書かれた菜根譚・後集一二七に次の文があります。「分に非ざるの福、故無きの獲は、造物の釣餌に非ざれば、即ち人世の機妌なり。(分を過ぎた幸福や、理由のない授かりものは、天が人を釣り上げるための餌でなければ、人の世の落とし穴である。)」この一節は時代を越えた真実であり、よくよく肝に銘ずべしです。