「日本の古典や中国の古典は、音読すると行間の響きが伝わってきます。」司馬遼太郎

過酷な戦争下、動員先の工場で、最前線や特攻基地の片隅で、ひそかに忍ばせた一冊が、教室から駆り出された学徒たちにより寸暇を盗んでむさぼり読まれた。(戦地では書物を持っていること自体が厳罰の対象で、許されるのは、万葉集・葉隠などに限られた。)二十年余の人生を人間として生きたという、ただそれだけの証明を一冊の書の再読三読(繰り返し読むこと)に賭けたという現実行動は、もはや単なる教養主義とは、はるかに遠いものだろう。

竹田篤司「明治人の教養」文春新書

学業途中で、兵役に入らざるをえませんでした。にわかに死についての覚悟をつくらねばならないため、岩波文庫のなかの「歎異抄」(親鸞・述)を買ってきて、音読しました。ついでながら、日本の古典や中国の古典は、黙読はいけません。音読すると行間の響きが伝わってきます。それに、自分の日本語力を鍛える上でも、実によい方法です。

「歎異抄」の行間のひびきに、信とは何かということを、黙示されたような思いがしました。むろん、信には至りませんでしたが、いざとなって狼狽することがないような自分をつくろうとする作業に、多少の役に立ったような気がしています。

みじかい青春でした。あとは、軍服の生活でしたから。ただ軍服時代二年間に、岩波文庫の『万葉集』を繰り返し読みました。『いはばしる たるみのうえの さわらびの もえいづるはるに なりにけるかも』この原初のあかるさをうたいあげたみごとなリズムは、死に直面したその時期に、心をつねに拭きとる役目をしてくれました。

司馬遼太郎「読書のいずみ」第三十号 1987年3月刊

司馬遼太郎・Wikipedia

電子書籍 万葉集・解説サイト「石激る垂水の上のさ蕨の萌出づる春になりにけるかも。」〈巻八・一四一八〉志貴皇子の懽びの歌  ← クリック又はタップしてください。

上の二つの文章は、戦争という過酷な状況の下、勤労学生として工場へ、兵士として戦場へ駆り出された若者たちの読書の様子を伝えています。これは遠い昔の話ではありません。今から77年前、当時の兵士たちと今同世代(二十代前半)の若者たちの曽祖父の体験です。

明日の命もわからぬ日々、読む本さえ自由にならず、限られた古典を再読三読(何度も繰り返し読むこと)する読書は、もはや「教養」のための読書ではなく、それは悟りを求める「行」としての読書でした。それは自分が日本という国に生まれたことの意味を問う読書だったのかもしれません。

終戦時二十三歳の司馬遼太郎は、敗戦の報に「何とくだらない戦争をしてきたのか。何とくだらないことを色々してきた国に生まれたのだろう」と考え込むと同時に「昔の日本人は、もう少しましだったのではないか」という思いがわきあがったそうです。その思いが司馬遼太郎の日本史への関心の原点となりました。

何を読むかも自由にならない戦争下で、当時の若者たちは、読むことを許された限られた古典を声に出して再読三読していました。この何度も繰り返し音読するという読書が、結果として彼らの日本語力と読書力を鍛えてくれたのです。