学而第一 五章 「千乗の国を道むるに」

電子書籍をダウンロードせず読まれる方(主にスマートフォンで読まれる方)のために、電子書籍の該当するページを画像で表示したサイトを用意しました。

下の <電子書籍 論語のページ画像サイト> をクリックまたはタップしてください。別ウィンドウでサイトが開きます。

<電子書籍 論語のページ画像サイト> 

国を治める要諦

「千乗の国」とは、戦車千台を保有できる国。当時各地に乱立していた諸侯の中で大国をいいます。「道びく」は「道むる」(おさむる)とも読み、治める(統治する)ことです。孔子は国を治めるには次の三つのことが大切であると述べています。。

● 国の行う事業は、それを大切に扱って人民の信頼を得ること。

● 国が無駄な出費を控えて人民の税負担を軽くし、人民を愛しめ。

● 人民を使役するなら、人民にとって都合のよい時期にせよ。(農繁期であってはならない。)

韓愈(かんゆ・768年〜824年)は、中唐を代表する文人官僚・政治家です。下級官僚の家に生まれた韓愈は、幼くして父を失い苦労して勉学に励み二十四歳で科挙に合格します。文人としての韓愈は、同時代の柳宗元(りゅうそうげん・773年〜819年)とともに文体改革を推進し、当時主流であった駢文(べんぶん)と呼ばれる技巧をこらした文体から脱し、形式に縛られず自由に思う所を表出できる文体である「古文」を創出しました。韓愈が活躍した八世紀後半は、安禄山の乱によって、それまで国の支配階級であった貴族が没落し、科挙出身の新興官僚が台頭しはじめた時期です。韓愈の文体改革は、それを通して儒教精神を復活させることを目指すものでした。唐の時代は仏教や道教が支配者層に広まり、政治がその影響を受けることが少なくありませんでした。熱烈な儒教の信奉者であった韓愈は、文体改革を通じて為政者が中国古来の伝統的な政治思想である儒教へ回帰することを強く主張したのです。

科挙合格後の韓愈は、高級官僚としてエリートの道を進んでいました。当時唐は仏教の全盛時代です。最澄と空海が唐へ留学したのもちょうどこの頃でした。時の皇帝憲宗は仏教を厚く信仰し、中国古来の政治思想である儒教は軽んじられていました。それでも韓愈は儒教による国の統治こそ王道であるとする立場を崩しません。そんな中、皇帝憲宗は、巨額の予算を使い、多くの人民を使役して、都長安に巨大な仏舎利塔(仏の骨を収める塔)の建設を計画します。それに対して韓愈は「論仏骨表」を奉り皇帝を諌めました。儒教を国を治める王道とする韓愈の目には、皇帝の仏舎利塔建設は、国を治めるの三つの要諦に逆行するものと映ったのです。しかしそれが皇帝の逆鱗にふれ、韓愈は辺境の地に左遷させられます。その時の心境を詩に表したのが「一封朝に奏す九重の天、夕べに潮州に貶せらる路八千」で有名な「左遷せられて藍關に至り姪孫湘に示す」と題された七言律詩です。

韓愈の「左遷せられて藍關に至り姪孫湘に示す」は名文電子読本で取り上げています。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA