秘儀に云はく 二頁

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衆人愛嬌

この芸とは、衆人愛嬌を以て、一座建立の寿福とせり。

これは観阿弥が子孫に当てた(直接的には世阿弥に)最も大切なメッセージです。

「この観世一座を設立・運営・継承していく上においては、都の貴人(貴族・有力大名)に愛されるだけでなく、遠国・田舎の大衆に愛されることを寿福(めでたい福)とせよ」と観阿弥は伝えているのです。「衆人愛嬌」は、「貴人も大衆も含めたすべての人」と解釈される場合もありますが、観阿弥の本音は「遠国・田舎の大衆」に重きをおいています。「都の貴人ばかりに目を向けることなく、遠国・田舎の大衆に愛されることを忘れてはならない」こう伝えています。

「この芸とは、衆人愛嬌を以て、一座建立の寿福とせり」この一文は世界初の経営理念と思われます。

観阿弥の大衆性と世阿弥の芸術性

大和申楽の伝統である物まねに幽玄な歌舞の要素を取り入れて大衆の心を掴み、その成果を背景に京の都に進出したのは観阿弥です。その芸は都でも評判となり、その評判を聞いて今熊野の能を観に来た将軍義満が観阿弥とその子世阿弥の芸を気に入りました。以後親子で義満の愛顧を受けたことが観世一座興隆の契機となります。それでも観阿弥は都で好まれる幽玄な歌舞を極める一方、遠国・田舎の大衆が好む素朴な物まね芸も大切にしました。一代で新興の座を芸界の主流に押し上げた苦労人の観阿弥は、先を見る目もするどかったでしょうが、それ以上に世の中や人間を分析することに長けていました。「貴人(貴族・有力大名)からの人気はあてにならない」「いつ心変わりするかわからないのが権力者だ」観阿弥はこう分析していたのです。今、最高権力者である将軍義満の愛顧を受けていたとしても、その義満の亡き後、次の将軍が同じように自分達を支援してくれるかどうかはわかりません。鎌倉幕府の滅亡とともにこの世に生を受け、南北朝の動乱の中で成長した観阿弥は、権力者の支持を失いあっという間に没落した武士や貴族、それだけでなく社会情勢の変化の中で権力者があっという間に入れ替わるのを散々みてきたのです。「たとえ権力者の愛顧を失っても、大衆が自分たちを支持してくれるなら、立ち直るチャンスは必ずある」「大衆の人気は自分たちを裏切らない」大衆の中に生まれ、大衆の中で大衆と共に生きてきた観阿弥にとって、大衆こそ信頼できる拠り所でした。ですから、京の都で名人との評判を得て、さらに将軍の愛顧を受けても、観阿弥は決して奢ることなく謙虚に大衆に接していました。これは観阿弥自身が極めて大衆的な人間であったことを物語っています。

一方、絶世の美少年としてこの世に生を受けた世阿弥は、将軍の愛顧を受けた十二歳以後、その時代の第一の文化人であった二条良基にも可愛がられ、藤若という優美な名をもらって和歌や古典の教養を授けられました。二条良基がそれほどに入れ込む程、藤若(世阿弥)は才能溢れる美少年だったのです。年少からの都の貴人との交際は、世阿弥から父観阿弥が大切にした大衆性を失わせていきます。そして決定的だったのは、世阿弥が二十一歳の時に父観阿弥が亡くなったことです。まだ芸道の途中であった世阿弥にとって、父観阿弥亡き後に目標とすべき役者がいるとすれば、それは幽玄な歌と舞で当時都の芸界を席巻していた近江申楽比叡座の犬王道阿弥をおいて考えられませんでした。それはかつて父観阿弥が田楽本座の一忠を「わが風体の師」と呼んだ以上の強い思い入れがあったかもしれません。その頃の世阿弥の活動地・居住地が京の都であったことも世阿弥を犬王道阿弥に近づけました。世阿弥はいつしか犬王道阿弥の幽玄な舞と歌の継承者となり、大和申楽の伝統であった大衆的な物まねから遠ざかっていきました。世阿弥は父観阿弥が伝えた「衆人愛嬌」を継承できませんでした。世阿弥は幽玄の極みを追求することで申楽の芸術性を高めようとしたのです。これは世阿弥が極めて芸術的な人間であったことを物語っています。世阿弥の幽玄な舞と歌を志向し大衆的な物まねを軽視する態度は、大和申楽の他の座からの反発を招き、観世座の中からも世阿弥と距離を置くものが出ました。

世阿弥が父観阿弥を心から尊敬していたことは間違いなく、風姿花伝の随所からそれをうかがい知ることができます。しかし世阿弥が観阿弥の成し遂げた仕事を引き継ぎ、それをより発展させるべく努力したかといえば、決してそうではありませんでした。それは、大衆的な人間である観阿弥と芸術的人間である世阿弥の間に横たわる大きな溝が原因でした。親子でありながら、二人は生まれ育った環境があまりに異なっていたのです。世阿弥にとって父観阿弥は尊敬すれども自分とは異質な存在でした。

一座建立

一座建立は、ここでは「一座を設立運営していくこと」という意味で使われています。辞書を引いてみると一座建立は茶道でも使われる言葉で「亭主と客が心を一つにして茶会を充実したものにしていくこと」という意味です。これは茶会の目的の一つとされ、一期一会(会ったその瞬間を、人生でたった一度の出会いと思い、その出会いを大切するために心を込めること)とともに茶道ではよく知られた言葉です。一座建立は能楽と茶道ではずいぶん違った意味で使われているわけです。語源を調べてみましたが、どうも風姿花伝で使われたのが最初のようです。すると観阿弥または観阿弥の口伝をもとに世阿弥が作った造語ということになります。それがなぜ茶道の世界で違った意味で使われるようになったのか?千利休の高弟である山上宗二が残した山上宗二記に「紹鴎(武野紹鴎)の茶会の目的が一座建立であるのに対して、利休(千利休)は一期一会で以て茶会に臨んだ」との記述があります。ここで紹鴎のいう一座建立とは「茶室に集まった人たちが政治や社会情勢の情報交換を行う場として茶会を利用する」という極めて現実的な意味だそうです。武野紹鴎のいう「一座建立の茶会」とは、さしずめ財界人が集うサロンのようなものをいうのでしょう。戦国時代に堺で行われていたのは、まさにそのような茶会だったのです。それと「亭主と客が心を一つにして茶会を充実したものにしていくこと」という今茶道で使われているの意味との間にどう関連があるのか?これもわからないところです。武野紹鴎の「一座建立の茶会」については、名文電子読本 解説サイト・南方録「自治都市 堺の繁栄と茶の湯」「武野紹鴎・村田珠光のわび茶の継承者にして千利休の師」を参照ください。

風姿花伝で使われている「この芸とは、衆人愛嬌を以て、一座建立の寿福とせり(申楽は、大衆に愛される事を以て、一座を設立し運営していく上での寿福としている)」この文章をよくよく味わってみると、当時の申楽の有様が目に浮かんでこないでしょうか。その頃の遠国・田舎での申楽は、役者と大衆が心を一つにして一緒に楽しんでいたのです。「一座と観客が心を一つにして申楽を楽しいものにしていく」これが「一座建立の申楽」であり、それは観阿弥が理想とする申楽の姿でした。その「一座建立の申楽」の精神が口伝し、おそらく金春禅鳳(世阿弥の娘婿である金春禅竹の孫)から侘茶の始祖である村田珠光に伝わり、茶道にその精神が取り入れられたのではないかと思います。金春禅鳳と村田珠光はともに一休禅師から禅を学んだ仲でした。

初心

能に初心を忘れずして(能を演じるにあたり、初心時代のわかりやすく大衆に向けた演技を忘れないようにして)

この「初心・初心時代のわかりやすく大衆に向けた演技は、前にあ「及ばぬ風体・高級で大衆が理解できない芸風」の反対語として使われています。

「初心忘るべからず」は世阿弥の言葉ですが、世阿弥は「初心」という言葉を現在使われている意味とは違った意味で使っていました。

名文電子読本「花鏡」の中で「初心忘るべからず」を取り上げています。ご参照ください

謗り

おしなべて謗りを得ざらんを、寿福達人の為手とは申すべきや(どんな人たちからも非難されないこと、これがめでたい福を持った名人というものだ)。

都の貴人たちの前であれ、遠国の田舎者たちの前であれ、どこでどんな観客の前で芸を演じても、誰からも悪口を言われないのが、寿福を授かった達者な役者というものだ。もちろん世阿弥が観阿弥のことを表現した言葉です。しかし、その頃(世阿弥・五十歳前後)世阿弥自身は様々な謗りを受けていたということだと思います。舞歌が中心の幽玄な芸風は都の貴人にはたいそう評価されましたが、この頁で語られているように「あまり及ばぬ風体のみなれば、また諸人の褒美欠けたり(あまりに高級で大衆が理解できない芸風ばかりを演じると、また大衆の賞賛は得られない)」でした。世阿弥は都で名人としての評判が高まるほど、遠国・田舎でその評判を落としていきました。世阿弥は遠国・田舎の大衆と疎遠となるだけでなく、大和申楽の伝統に従わない者として大和申楽の他の座との関係も悪化していきます。それでも世阿弥の後ろ盾として将軍義満が存在しているうちは、それがあからさまに表に出なかったのですが、義満が亡くなり、次の将軍義持が世阿弥をひいきにしなかったことから、世阿弥へ批判が表に出始めたのだと思います。そこには他の座の妬みだけでなく、長年義満の愛顧を受けてきた世阿弥の慢心もあったはずです。序の「情識はなかれ(慢心からの強情があってはならない)」は、この時の世阿弥の自分自身への反省と戒めでもあったのです。「自分は決して寿福達人の為手ではない」世阿弥自身はそう思っていたに違いありません。

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