磐代の浜松が枝を引き結び〈巻二・一四一〉家にあれば笥に盛る飯を〈巻二・一四二〉有間皇子の自ら傷みて松が枝を結べる御歌二首
有間皇子の歌二首です。二つの歌からは、有間皇子が皇位を望まず、また政治的な野心もなく、ただ平穏な日々が続く事だけを望んでいたことが伝わってきます。「毎日のありふれた日常の中にこそ真の幸せがある。」若い皇子はこのように考えていたのだと思います。後世有間皇子が悲劇の皇子として歌に詠まれ、語り継がれてきたのは、若い皇子のそんな思いからではないでしょうか。
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歌を深く味わってみます。
有間皇子の歌二首です。
六四五年中大兄皇子と中臣鎌足らが宮中で蘇我入鹿を誅殺し、その父蘇我蛦夷を滅ぼすという乙巳の変(いつしのへん)が起こります。その直後に皇極天皇は退位し、弟の軽皇子が即位して孝徳天皇となりました。この時に皇太子は中大兄皇子とされました。その後、皇太子である中大兄皇子と中臣鎌足が中心となって大化の改新と呼ばれる政治改革が断行され律令国家体制が確立されていきます。
孝徳天皇即位後も政治の実権は中大兄皇子が握り、天皇はことごとく軽視されます。そして天皇と中大兄皇子の不仲が次第に深刻化していきました。孝徳天皇の時、都が飛鳥から難波へ移されます。中大兄皇子は都を再び飛鳥へ戻すよう主張しますが、孝徳天皇は聞き入れません。そこで中大兄皇子は孝徳天皇を残したまま群臣を引き連れて飛鳥へと戻ります。この時に皇后までもが飛鳥へ戻ってしまいました。孤立した孝徳天皇は翌年難波宮で憤死します。
孝徳天皇が崩御した後も皇太子中大兄皇子は即位せず、一度退位した中大兄皇子の母、皇極天皇が再び皇位について斉明天皇となりました。この時から有間皇子は、孝徳天皇の血を引く皇子として中大兄皇子の最大の政敵となったのです。中大兄皇子は、乙巳の変の後、腹違いの兄で蘇我氏の血を引く古人大兄皇子を、皇位継承の意思がないことを宣言して出家していたにも関わらず謀反の疑いで処刑します。また、自分の妃(前の歌に登場した大田皇女と讃良皇女の生母である遠智娘)の父親で乙巳の変では中大兄皇子への協力者でもあった蘇我倉山田石川麻呂を自殺させるなど、次々に身内を政敵として粛正していきました。
有間皇子は中大兄皇子の次の標的が自分である事を強く意識します。有間皇子は狂人を装い、その治療のためとして紀伊の国の牟婁の温湯(むろのゆ・今の和歌山県白浜温泉)に出かけました。牟婁の温湯から都に帰った有間皇子は、牟婁の温湯にはあらゆる病を治す効能がありますと斉明天皇に報告します。それを聞いて喜んだ斉明天皇は、早速牟婁の温湯へ行幸しました。その行幸には中大兄皇子も同行します。
そして斉明天皇と中大兄皇子が不在の都で事件が起きます。都の留守を預かっていた蘇我赤兄(そがのあかえ・蘇我馬子の孫で入鹿の従兄弟)が有間皇子の屋敷を訪ね、中大兄皇子の失政を並び立て有間皇子に挙兵を勧めます。数日後、有間皇子の方から蘇我赤兄の屋敷を訪ね、挙兵について密談したとされます。しかし、その最中に有間皇子が使っていた脇息(脇に置いてもたれかかる道具)が壊れ、これを不吉の前兆として挙兵は取りやめられます。有間皇子と蘇我赤兄はお互いに決して口外しないことを約束して別れました。
しかし、その夜、蘇我赤兄が兵を引き連れ有間皇子の屋敷を取り囲みました。有間皇子が謀反を起こしたとの報告が牟婁の温湯に滞在中の斉明天皇と中大兄皇子にすでになされており、蘇我赤兄に討伐の命令が下されていたのです。有間皇子は捕らえられ、取り調べのため牟婁の温湯へと護送されました。中大兄皇子から「なぜ謀反を起こしたのだ」と問いただされた有間皇子は、「天と赤兄だけが知っている。私は何も知らない。」と答えます。有間皇子は、牟婁の温湯から都へ送り返される途中、藤代坂(和歌山県海南市)で絞殺されました。19歳の若さでした。
この事件は、中大兄皇子が有間皇子を抹殺するために周到に計画した罠でした。牟婁の温湯で中大兄皇子に取り調べられた時、有間皇子はこれがすべて中大兄皇子の仕組んだ罠であることに気づきます。「天と赤兄だけが知っている。私は何も知らない」この言葉は、「あの時これがあなたの罠である事を天と赤兄だけが知っていた。しかし、お人好しの私は何も知らなかった(気づかなかった)。けれども、今、私はすべてを知った(気づいた)」という中大兄皇子への怨みの言葉だったのです。
有間皇子は謀反を起こすつもりなど毛頭ありませんでした。蘇我赤兄が挙兵を勧めた時はこれを拒絶します。そこで赤兄は言葉巧みに有間皇子を自分の屋敷におびき寄せ、謀反を起こす事をあたかも有間皇子の方から赤兄に持ちかけたようにみせかけたのです。これはすべて中大兄皇子と赤兄が仕組んだ罠でした。
「私はただ平穏な日々が続く事を望んでいただけなのに、なぜ謀反の罪で罪人となろうとしているだろう。今、盤代の浜辺に植えられた松の枝と枝を引き結んで、再びここに帰って来れるように祈ろう。そして幸いにも無事に帰ってこれたなら、生きている喜びを実感しながら引き結んだ松の枝をもう一度見て神に感謝しよう」
「私は、家に居れば、平穏な日々が続く事を願い、毎日の神へのお供えを欠かしたことはない。今は謀反の嫌疑をかけられ草を枕にするわびしい旅の道中であるが、それでも神へのお供は欠かすまい。今はお供えの御飯を盛る食器がないので、椎の葉に盛って神にお供えしよう」
二つの歌からは、有間皇子が皇位を望まず、また政治的な野心もなく、ただ平穏な日々が続く事だけを望んでいたことが伝わってきます。「毎日のありふれた日常の中にこそ真の幸せがある。」若い皇子はこのように考えていたのだと思います。
後世有間皇子が悲劇の皇子として歌に詠まれ、語り継がれてきたのは、若い皇子のそんな思いからではないでしょうか。