瓜食めば子等思ほゆ〈卷五・八○二〉山上憶良

この歌は、都に家族を残して筑前に国司として赴任中に詠まれた歌であろうと推測されています。もしそうであるなら、憶良はすでに六十代半ばを過ぎており、都に残した子供への愛情を詠いながら、同時に老いを感じつつ家族と離れ一人筑前に赴任している寂しさとつらさを詠っているようにも思えます。

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<語句解説>

歌を深く味わってみます。

山上憶良の子供を思う歌とその反歌です。子供への素直で素朴な愛情がにじみ出ているだけでなく、山上憶良の人柄がしのばれる心にしみる歌です。

「家族と遠く離れ一人で瓜を食べていると、子供がまだ幼い頃一緒に瓜を食べた日のことが思い出される。栗を食べるとなおさらだ。あの時の子供の顔がまぶたにちらついて眠れやしない」

この歌は、都に家族を残して筑前に国司として赴任中に詠まれた歌であろうと推測されています。もしそうであるなら、憶良はすでに六十代半ばを過ぎており、都に残した子供への愛情を詠いながら、同時に老いを感じつつ家族と離れ一人筑前に赴任している寂しさとつらさを詠っているようにも思えます。

注目すべきは詞書に釈迦の言葉を引用したことです。山上憶良は唐に留学し最新の儒教と仏教の知識を持ち帰った当代随一の知識人でした。その憶良があえて釈迦の言葉を引用したのにはそれなりの理由があってのことです。釈迦の言葉の如く親は子に無条件の愛を捧げます。その愛情に理由はいらず、それは人間の自然な感情です。仏教はその人間の自然な感情に立脚した思想です。一方儒教は親の子に対する自然な感情よりも、子の親に対する孝を重視します。それは子の親に対する愛情に立脚したものではなく、孝は努力して行うもの、義務として課せられたものでした。儒教では、孝は人間が努力すべき根本(務めるべき本)であるとされます。封建社会は厳格な身分制度によって社会秩序が保たれており、孝がその出発点だったのです。(論語・学而編第二章を参照)

憶良は孝をおしつけがましいものと感じたのだと思います。親と子の関係は、努力を強要したり義務として課せられるものであってはならない。それは、釈迦の説くように、愛という人間の自然な感情に立脚せねばならない。そう考えたからこそ、憶良は釈迦の言葉を引用し、他に勝るべきものがない親から子への無条件の愛を詠ったのです。