およそ、能の名望を得る事 三頁

PDF248ページ

我が風体の形木

PDF247・248 ページ 要約

あらゆる芸風を身につけろと言っても、自分の流派の芸風の基本が身についていない役者は、能に命が宿っていない弱い役者である。自分の流派の芸風の基本を身につけてこそ、あらゆる芸風に通じることができるのだ。自分の流派の芸風の基本を身につけていない役者が、どうして他の流派の芸風を知ることができようか。そんな役者の能は弱いので芸の魅力(花)も長く続かない。芸の魅力(花)が長く続かないなら、どの芸風も知らないのと同じである。

この奥義篇が今存亡の危機のある大和申楽に向かって世阿弥の本音を語ったものであるなら、世阿弥がここでいう「我が風体の形木(自分の流派の芸風の基本)」とは、大和申楽が伝統とする「物まね」ということになります。

大和申楽の役者ならば、まず「物まね」を繰り返し稽古して自分のものとし、その後に近江申楽、田楽など他の芸風を学び取れといいうことです。

父観阿弥は大和申楽の伝統であった物まねに白拍子系統の曲舞の音曲を取り入れました。物まねに舞歌の要素を加えたその芸は、大衆性と幽玄性を融合した斬新なものでした。PDF243ページの投稿サイト 観阿弥 を参照してください。

世阿弥の夢幻能が物まねと幽玄を支えとして生まれたことは、観世寿夫が「心より心に伝ふる花」で指摘している通りです。PDF242ページの投稿サイト幽玄と物まね・「幽玄」と「物まね」を支えとして生まれた「夢幻能」を参照してください。

正当な芸の基本形「舞と歌」

ここで「序」PDF158ページを再読してみてください。

「ただ、言葉卑しからずして、姿幽玄ならんを、享けたる達人とは申すべきをや(謡の言葉が下品でなく、舞い演じる姿が優美であるのを、正統な芸を身につけた達者というべきであろう)」

世阿弥は「序」において、「謡の言葉が上品であること(上品に聞こえること)」「舞台で舞い演じる姿が幽玄であること(幽玄に見えること)」の二つ、つまり舞(舞歌)を正統な芸の基本の型としてあげています。

奥義篇では「我が風体の形木(自分の流派の芸風の基本)」を「物まね」としながら、「序」では正当な芸の基本形を「舞歌」としているのは矛盾しているようにも思えます。しかし、ここで押さえておかねばならないポイントは、奥義篇の「自分の流派の芸風の基本(物まね)をまず確立しなければならない」という世阿弥の言葉が、今存亡の危機のある大和申楽の役者たちに向かって投げかけられた言葉であるのに対して、「序」の「謡の言葉(歌)が下品でなく、舞い演じる姿(舞)が優美であるのを、正統な芸を身につけた達者というべきであろう」は、観世の家を継承する子孫にむけて語られた言葉であることです。

申楽談儀は世阿弥の言葉として以下のように伝えています。

「遊楽の道はすべて物まねよりなるといいながら、申楽は神楽をもととするゆえ、舞と歌の二曲を大本とすべきである(遊楽=申楽の道は、すべてが物まね、つまり役に扮する演技を根本としているといいながら、申楽は神楽を起源としているのだから、物まねよりはむしろ、舞と歌の二つ技芸を申楽の基本形とすべきである)」「遊楽」という言葉の由来については、神儀篇・申楽の始まり・PDF230ページ 投稿サイト「『神代』に起こった申楽の源流 」を参照してください。

申楽談儀の世阿弥の言葉を世阿弥の本音に即して言えば「世間では申楽は物まね(演技)を根本とした芸能と思われているが、申楽は本来神楽を起源としているのだから、申楽の役者は舞と歌の二つを基本の芸の技として極めていくべきである。」となるのではないでしょうか。これは前のページPDF248ページの投稿サイトで述べた「これからの申楽は、大和、近江といった地域による伝統的な芸の違い、もっとひろく言えば、申楽、田楽といった芸能の間の垣根さえ取り払い、もっと自由で斬新な芸を創造していかなければならない」という世阿弥の本音に即しています。

世阿弥に物まねを軽視する考えはなかったと思います。しかし、時代の変化を敏感に感じ取っていた世阿弥は、物まねを根本においた芸から舞歌を中心にした芸に移行することが自由で斬新な芸を創造するには不可欠であると考えていたようです。

近江申楽・犬王道阿弥の芸の継承者

PDF242ページ冒頭の文章を再読してみます。

さて、この能の道は、大和申楽と近江申楽では芸風が違っている。近江申楽では、優美な境地を取り上げて、物まねを次(二番目)にして、風情(の優美さ)を根本(一番)としている。大和申楽では、まず物まねを取り上げ、様々な物まねを演じ尽くして、しかも(その上)優美な芸風であろうとするのである。

観世座の観阿弥と世阿弥が大和申楽を代表する役者として活躍していた時、近江申楽を代表する名人が比叡座の犬王道阿弥でした。犬王道阿弥の芸風は舞歌の幽玄性をどこまでも追求するもので、大衆的な側面をまったく持っていませんでした。 PDF243ページの 投稿サイトの犬王道阿弥 を再読してみてください。

世阿弥は二十一歳の時に父観阿弥を亡くしています。世阿弥が六歳から申楽の稽古を始めたとして、父観阿弥の芸に接し、直接その指導を受けた期間は十五年程度だったことになります。一方、犬王道阿弥の年齢は観阿弥と同世代、または若干若かったと推測されていますが、世阿弥が五十歳の時に犬王道阿弥は亡くなりました。父観阿弥が亡くなってから三十年の後です。世阿弥が犬王道阿弥の芸に接した時間は、父観阿弥より遥かに長い時間だったことになります。

PDF244ページの投稿サイトの 観阿弥亡き後の世阿弥 の中で述べましたが、観阿弥没後、世阿弥は犬王道阿弥から直接に指導を受け、かなり濃密な関係を作り上げていたのではないでしょうか。それを示す資料はありませんが、二十一歳で父であり芸の師匠でもあった観阿弥が亡くなり、その後誰からも直接的な指導を受けず一人で芸を磨いていったとは考えられません。かといって、大和申楽の中に世阿弥を指導できる役者はいませんでした。世阿弥が幽玄を極めた芸風で都の人気をさらっていた犬王道阿弥の芸に、大和申楽にはない芸術的な魅力を感じたのは無理からぬことです。世阿弥が犬王道阿弥に指導を乞うたとしたら、それはもはや必然だったのかもしれませんが、世阿弥の行動は申楽の世界の不文律の掟を破ることに等しかったのかもしれません。それを覚悟で指導を乞う世阿弥を犬王道阿弥が見捨てるはずはありません。犬王道阿弥も自分が持つ芸の奥義をすべて世阿弥に伝えたのだと思います。そこには自分の芸を継承できるのは世阿弥以外にいないという犬王道阿弥の思いがあったものと推測します。

世阿弥は父観阿弥から大和申楽の物まねを基本とした、その中でもことさら大和申楽が得意とした鬼の物まねの力強い芸風を受け継ぎました。さらに犬王道阿弥から舞歌を基本とした、近江申楽の幽玄を極めた芸風を受け継ぎました。そうして完成させたのが夢幻能という斬新で革命的な芸風の能だったのです。夢幻能は観阿弥と犬王道阿弥というライバル関係にあった二人の天才役者の芸風が合体して生まれた能であり、それを合体させたのが世阿弥だったということができます。

以上書き連ねたことは、学問的に認められた説ではありません。私にはそう思えるという個人的な想像を書き連ねただけです。世阿弥の研究者の方々からは、根拠がないだけに強く否定される考え方でしょうが、この電子読書会では、常識を考慮に入れず自由に創造的な意見を書き込んでください。

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